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2004年05月 アーカイブ

2004年05月12日

朝がまた来る

5月11日

少し前、某歌手のカバーにより、再び脚光をあびた童謡、「大きな古時計」。

今はもう動かない~のフレーズあたりで、目頭が熱くなるという人も、大勢いるので
はないかと思います。私も例に洩れず、我が家では決して見たことのない、立派な木
製の時計を想像しては、切なくなっていました。

しかし、本当に哀れなのは、某翁の古時計ではなく、私達が日常で使っている、目覚
まし時計ではないでしょうか。

毎朝、健気に働き、多くの人々を助けているにも関わらず、「うるさい」と罵られ、
挙句の果てには、殴る蹴るの暴行です。もしも、この器械が口をきくことができたな
ら、「愛の目覚まし・ホットライン(フリーダイヤル)」が開設されていたことで
しょう。

日本にいた時は、かくいう私も、暴力主人だったのですが、こちらに来てからは、二
匹の目覚ましと、それは幸せに暮らしています。

もちろん、朝6時の起床なので、二度寝の誘惑がないわけではないのですが、二度寝
をしてしまうと、それが三度寝になり、三度寝が四度寝になり、五度寝、六度寝、・
・・マタネということになりかねないので、鉄腕アトムならぬ、鉄腕アラームの声に
耳を傾け、根性を入れて起きています。おはようございます!

・・などと、目覚めについて、いかにも爽やかに書いてしまいましたが、実際の私
は、爽やかさとは三千里かけはなれた姿をしています。

髪はライブ会場のごとくに盛り上がり、眉毛は平安時代の姫君、それに仏様もびっく
りの仏頂面ですから、鏡の中の私は、さながらランウェイのスーパーモデルです。
(首から上に限る)

そして、テレビのニュースや天気予報を見ながら、生徒との格闘に備えて、朝食を
しっかりと食べます。その量、モデル契約即打ち切りです。

7時、契約を打ち切られた私は、身支度を整えて、普通の人となって学校へ向かいま
す。

さて。日本語の授業をとっている生徒は、およそ60人ほどで、生徒人数が1500
人を超えるヘンリーシブリー高校全体から見ると少ないのですが、それでも、ちょく
ちょくと校内で彼等とすれ違います。

というわけで、朝、学校に着いた瞬間から、生徒に会うので、気がぬけません。

少しでも日米友好に役立とうと、「おはようございます。」と、それこそ開店直後の
百貨店の販売員のように、ペコちゃん顔負けのスマイルで挨拶をします。

すると、よくしたもので、よほどシャイな子でない限り、「おはようございます、先
生。」と、挨拶オリンピック・金メダル級の返答をしてくれます。

あまり勉強をしない生徒も、「おはようございます、先生。」と「さようなら、先
生。」だけは、きちんと習得していて、これは、RPG(テレビゲーム)でいえば、一
番最初の回復呪文のようなものです。ホイミ!

オフィスに着くと、細々とした仕事を片付けたり、その日の授業教案を、もう一度見
直したりします。

そして、オフィスのすぐ裏にある教室へ向かいます。オフィスにも教室にも窓はない
のですが、そのかわりに、廊下一面がガラス張りになっているので、オフィスと教室
を往復する度に、広々としたパノラマを楽しむことができます。

冬は、雲と雪に覆われているものの、それ以外の季節には、青々とした芝生の上に、
雁が群れていたりなどして、思わず外に飛び出したくなります。

しかし、もちろん現実には、学校から飛び出すわけにもいかないので、「軍隊行進
曲」を頭の中で歌いながら、朝から何やら騒がしい教室に入場します。タッタララー
ラー。

先回、「帰宅部」について書きましたが、朝になると今度は、宅から帰ってきた「帰
宅部」メンバーが教室に集まっているのです。

忙しい朝にわざわざ来なくても・・・とも思うのですが、もしも教室に鍵がかかって
いようものなら、雛鳥のごとくいじらしく、ドアの前で、私(=鍵)が来るのを待っ
ているので、彼等の中では、きっと大切な日課になっているのでしょう。

ちなみに、教室の広さというと、縦横に二回、そして対角線に2√2回、デングリ返
りができるぐらいの広さで、ちょうど公園の砂場を思わせます。

しかし、小学校前の幼児ならばともかく、米国のビバリーヒルズな高校生にとって
は、砂場というのは、明らかにスペース不足で、「クローゼットみたい」と愚痴をこ
ぼす生徒もたまにいます。

「押入れ教室」と聞くと、何やら虐待でも行われていそうな暗い響きがありますが、
かの有名なネコ型ロボットでさえ、押入れを愛用しているのですから、愚痴などこぼ
さないでほしいものです。

教室の壁には、日本から持参した日本の景色や浮世絵、絵葉書やポスターなどが所狭
しと貼り付けられています。

私自身は、ゴチャゴチャとした飾り付けは、あまり好きではないのですが、暇がある
と、それらに見入っている生徒もいるので、教育上、何かしら効果があると思われま
す。

といっても、教室の一角のアニメコーナーに、一番人気があるのは、間違いないので
すが。こちらでは、「ドラゴンボールZ」や「ガンダム」、「犬夜叉」や宮崎アニメ
など、とにかく日本のアニメが大流行なのです。中でも、「ポケットモンスター」の
全キャラ掲載のポスターには、強い磁力があるようで、ピカチュウやライチュウに、
皆ムチュウです。

そして、7時35分。一時間目の生徒たちが、ドアに垂れ下がっている暖簾に、顔を
真正面から衝突させながら、教室に次々と入場してきます。彼等が、ジャパニーズカ
ルチャーに馴染むのは、まだまだ先のようです。

2004年05月14日

パッション見てきました(松下正己)

 世界的に何かと話題になっている『パッション』を観てまいりました。
 イエス最後の12時間を描いたというこの作品の「見どころ」は、何といってもローマ兵によるイエスの拷問と、十字架を担いでのイエスの道行きでしょう。このシークェンスの長いこと長いこと。その後、ゴルゴタの丘に着いてから十字架にかけられるまでの手順も、執拗に描写されます。
 あまりにもバランスを欠いたこの構成は、一体何なのでしょうか。大工時代のイエス、山上の垂訓、マグダラのマリアの挿話、最後の晩餐などは、イエスの回想という不自然なかたちで、ほんの僅かのショットしか出てきません。
 鈎爪のついた鎖状の鞭によって、イエスの身体がぼろぼろになっていく過程を観続けることは、確かに信者にとってはショッキングな体験といえるでしょう。イエスが原罪の全てを引き受けているまさしくその場に立ち会っているようなものなのですから。そして、イエスに対するこの惨い仕打ちは、まだまだ延々と続くのです。
 しかしそのイエスは「神の子」として、非キリスト教徒に対しての一切の感情移入と投射=同一化を拒否し続けます。非キリスト教徒の観客は、ただこの暴力を傍観するしかなく、同一化の対象は、ごく自然に母マリアの方に移ります。
 マリアの、十字架にかけられるわが子に対する感情の激しさは、圧倒的にリアルです。地面に広がる拷問を受けたイエスの血の跡を拭く姿、十字架の道行きを必死に追いかける姿、ゴルゴタの丘でわが子の苦悶する様子を小石を両手一杯に握りしめつつ凝視する姿、そして、十字架から降ろされたイエスの傍らで私たち観客に視線を向けたまま身じろぎもしないマリアの姿に、私たちは圧倒されてしまいます。
 数々の奇跡を起こし、最後には復活してしまう(常人ではない)イエスではなく、感情に満ちあふれたマリアこそが、この映画の主人公だといえるでしょう。
 そしてこのマリアは、紀元431年エフェソの公会議で崇拝の対象と定められた「神の運び手」でもなければ、1854年、時の教皇ピウス九世によって原罪から解放された「聖母」でもなく、貶められ暴行された上で殺害されるわが子を、成す術もなく見守ることしかできない、ひとりの母親としてのマリアなのです。
 今日に至るまで、ファティマを始め世界中で目撃されている聖母マリアは、その実在性すら疑わしいのですが、この映画のマリアは、確かに(私たち観客と共に)映画内世界を生きていたように思われます。

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