世界的に何かと話題になっている『パッション』を観てまいりました。
イエス最後の12時間を描いたというこの作品の「見どころ」は、何といってもローマ兵によるイエスの拷問と、十字架を担いでのイエスの道行きでしょう。このシークェンスの長いこと長いこと。その後、ゴルゴタの丘に着いてから十字架にかけられるまでの手順も、執拗に描写されます。
あまりにもバランスを欠いたこの構成は、一体何なのでしょうか。大工時代のイエス、山上の垂訓、マグダラのマリアの挿話、最後の晩餐などは、イエスの回想という不自然なかたちで、ほんの僅かのショットしか出てきません。
鈎爪のついた鎖状の鞭によって、イエスの身体がぼろぼろになっていく過程を観続けることは、確かに信者にとってはショッキングな体験といえるでしょう。イエスが原罪の全てを引き受けているまさしくその場に立ち会っているようなものなのですから。そして、イエスに対するこの惨い仕打ちは、まだまだ延々と続くのです。
しかしそのイエスは「神の子」として、非キリスト教徒に対しての一切の感情移入と投射=同一化を拒否し続けます。非キリスト教徒の観客は、ただこの暴力を傍観するしかなく、同一化の対象は、ごく自然に母マリアの方に移ります。
マリアの、十字架にかけられるわが子に対する感情の激しさは、圧倒的にリアルです。地面に広がる拷問を受けたイエスの血の跡を拭く姿、十字架の道行きを必死に追いかける姿、ゴルゴタの丘でわが子の苦悶する様子を小石を両手一杯に握りしめつつ凝視する姿、そして、十字架から降ろされたイエスの傍らで私たち観客に視線を向けたまま身じろぎもしないマリアの姿に、私たちは圧倒されてしまいます。
数々の奇跡を起こし、最後には復活してしまう(常人ではない)イエスではなく、感情に満ちあふれたマリアこそが、この映画の主人公だといえるでしょう。
そしてこのマリアは、紀元431年エフェソの公会議で崇拝の対象と定められた「神の運び手」でもなければ、1854年、時の教皇ピウス九世によって原罪から解放された「聖母」でもなく、貶められ暴行された上で殺害されるわが子を、成す術もなく見守ることしかできない、ひとりの母親としてのマリアなのです。
今日に至るまで、ファティマを始め世界中で目撃されている聖母マリアは、その実在性すら疑わしいのですが、この映画のマリアは、確かに(私たち観客と共に)映画内世界を生きていたように思われます。
コメント (1)
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投稿者: ssayasaya | 2006年02月21日 10:41
日時: 2006年02月21日 10:41