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稽古三昧です

9月14日(月)

 それにしても眠い。久しぶりに杖道の稽古に行く。夏は暑すぎて、何回かは予定をまるっきり忘れていて、久々の登場となってしまった。久しぶりだが身体を動かすと、それはそれでいつもと違った目標が出てくる。これを欲と言えば聞こえがいいが、今日はなぜか、どうにかして今より先に行きたいという思いが強く先行するのだ。
いかにして杖を邪魔しないか。そして杖の長さを生かすか。そのような賢しらなことを考えながら動いていること事態、おそらくよくない。考えてしまうことがよくないのではない。そのような「考え」が頭の中に渦巻くことによって、無意味な間が空いてしまうことがよくないのである。考えてしまうのだから、それはそれで仕方ない。止めようとしても止められない。ごちゃごちゃしたことが頭に浮かぶより先に、身体が反応としての動きがなくてはならない。いわば思考の通路が脳よりも先に、身体(脳も身体だが)の反応として出てきてほしいところである。それには、常日頃から考える身体、つまり思考する身体でなくてはならない。

 先生が新しい道衣になっている。それを見ていると、わたしも新しいのが欲しくなってくる。欲望はうつるのだろうか。いや欲望は簡単にうつる。実際わたしはうつりやすい。そろそろそういう体質だということを認めよう。わかりやすい体質だなあ。ねえ。
先生のような高級なのは、まだまだ買えないが、いざ自らのを振り返ってよく見てみると、これは十年近く着ている。いい塩梅にすすけてもきた。そろそろ購入しても悪くはない頃であるなあと思ったりもする。今より先に行くためのひとつかもしれない。機会を見て購入しよう。誰かに買ってもらうのも手ではあるね。

9月13日(日)

 ぶっとばしてきた九月。助走してきた九月。そろそろ半分が過ぎようとしている。

9月12日(土)

 普段の稽古に続いて特訓がある。その担当を頼まれる。およそ三時間の稽古のあと、さらに三時間ほど、こんどの秋合宿で昇段審査を控えた方々と一緒に稽古するのだ。今回もまた、傾向と対策をと昇段予定者にお願いされたのである。
しかしなぜ、このようなことをするのかといえば、審査で出題されるであろう技を合宿先で稽古したり、お伝えしたりする時間はないに等しいからである。合宿では合宿の稽古がある。審査用の稽古時間は特別にはない。普段稽古していることが、審査に出るのだから、当然といえば当然のことである。それでも審査があるとわかれば、可能な時間を見つけて稽古したいと思うのが世の常なのだろう。というわけで、今回も特訓にご一緒する機会に恵まれた。そこに呼んでいただけるわたしが一番稽古させてもらっている、要は、たいへんありがたい時間である。
 稽古するうちあっという間に時が過ぎ、外は雨。

9月11日(金)

 所用で三宮へ。明るいうちに三宮に来たのは久しぶりのことだ。随分とご無沙汰してしまっているので、はっきり景色は見えるのに、どこに何があったのかも忘れてしまっている。阪急に乗って三宮に出かけたけれど、目的地の神戸国際会館へと向かうのに一番近い出口を忘れてしまい、無意味に歩き回ってしまった。大阪ならともかく神戸でこれはないだろうと思いながら(わたしは大阪、つまり梅田駅前の地理に異様に不案内なのだ)センター街も歩いた。センター街の場所自体は変わっていないが、そこに並んでいるいくつかの店が改装され、いくつかの店が閉まり、いくつかの店が新しくなっていた。知らない世界があった。あの頃から、なんだか遠くへ来てしまった気がした。

9月10日(木)

 ツクツクホーシが鳴いている。さすがに岡田山という場所は、山という名がつくだけあって、下界(というと語弊があるが実際にそうである。登ってみればわかる)とは気温も違うのか、ツクツクホーシが鳴いている。ほんとうにいくらか涼しい。まだ夏がそこかしこに感触を漂わせている。
井上陽水の『少年時代』の歌詞にあるように、「八月は夢花火」と回想される時期。おそらく九月の初めの頃は、いちばん心に深く食い込む。何が食い込むのかはわからないが、秋の気配が一気にやってくる。ぐっと何かが突き刺さる。こういうとき、わたしは人間であり、さらには日本人なのだなあと自らの身体をもって感じる。しかし同時にそれは、「歌詞」という特殊なことばのなかで作られた記憶であるとも感じる。それも20世紀の終わりごろに出現したことばによって。あるいは、そういったことばをうまく取り出せる術を持った人物が台頭している時期に、ちょうどわたしも生まれ育っているということを実感する。

9月9日(水)

 道場の雰囲気がよくなってくると、食物がおいしく食べられると気づいたのは最近のことだ。日々のやりとりがスムーズであると、食べることが愉快だ。食べることが愉快だと、稽古も俄然楽しくもなる。稽古が楽しくて愉快だと、日々の出来事がよくなってくる。仕事ももちろんそうだ。そして食べることが、少なからず素敵な時間になる。いずれにせよ、稽古が愉快だとあらゆる状態がいい。言わば、生きていることそのものの循環がいいのだ。
 稽古時間が少ないのがこのところの課題だ。だんだんと会員も増えてきて、だんだんと流れも順調になってくると、だんだんといろんなことがしたくなる。稽古時間を長くやればいいというものではないが、ほかに開講できる場所はないかと探している。夕方からの時間帯で、講座を開きたいと切望している。どこかに場所がないかと折を見て探しているが、なかなか見つからない。どこかにないだろうか。と今日も探し続けている。

9月8日(火)

 なぜか、せんちめんたるぅ。

9月7日(月)

 気になっていたのもあって、夜更けまで気になるマンガを読む。読んでいるうち眠くなるだろうと思ったが、眠くなるころがなかなか来ない。夜更けであっても朝方であっても、あまり変わりない。そのうえ、おなかがすかない。どこか身体の中身が変化している。のだ、きっと。と思いながら、身体はマンガを読む。

9月6日(日)

 ついに歌仙会の日となりました。内輪の会のため、ギャラリーはいない。それでも多少の緊張はするもの。今回の出演は、謡は『羽衣』ワキ、『竹生島』ツレ、仕舞は『敦盛』。地謡で『井筒』にも出た。それ以外の間は、会場設備のため毛氈を出したり敷いたり、台を出したり置いたりする。若輩者はいつも動かねばならぬのである。
 今回は無闇な緊張も凝りもなく、リラックスして、なんとか最後まで粗相なく舞うことができた。レヴェルの低い話だが、これまでのわたしには、それがなかなかできなかった。昨日までできたことが、急におかしなことになり、いらない緊張が走るのだ。周囲からすれば、どうやらそんなふうには見えないらしいが、この世でただひとり、下川先生にだけは、いつもそれが露呈している。それが今回はなかった。よかったよかった。それだけでもすこしだけ成長したか。

さて、歌仙会は大概夏ごろに行われるので毎年浴衣を着ている。ことしは、母がその昔あつらえたものを譲ってもらい、着てみた。紺地に白の日本古来の色合いなので、飽きが来ず、流行に左右されるでもなく、いい感じである(と思われる)。浴衣そのものは、どうやら昔のほうが生地も仕立てもいいようで、軽くて丈夫だ。さらには、浴衣は着物に比べて、荷物も断然少なく、移動にもまた便利で軽い。それがまたよい。

9月5日(土)

 ついに週末となりました。九月になり、「九月だ」という言い方にそろそろ慣れてきた頃。暑くてうだる日も過ぎたのか、道場にも人が集まり始める。あまりに暑いと人が寄り付かなくなるということを、ことしは、しばしば実感した。そうであれば、このような暑さが続けばいいと思うが、暑すぎるのも難点である。ある程度の涼しさもなければ。
いまや世界各国で合気道が広がっているが、熱帯気候や亜熱帯気候では、定着しにくいものではないかと勝手な想像をする。いやいや、それとも日本の湿度が高すぎるだけのことか。

9月4日(金)

 せんちめんたる~う。

9月3日(木)

 ついに大学の稽古再開の日となりました。九月になったというのに、まだまだ暑く、陽だけが短くなっている。ドラえもんの誕生日が来ても、彼はことしもまた現れることがない。生まれるのはまだまだ先の22世紀の話だ。その頃わたしは、どこでなにをしているだろう。ふとそんなこと思う。我に返って「ああ、この現世において、この肉体、この精神で生きていることはないんだなあ」ということだけが、はっきりと頭をよぎる。

9月2日(水)

 ついに杖の稽古を通常稽古時間に食い込ませる日となりました。杖を使うことは、良くも悪くも普段の身体の使い方がはっきりと出るので、個人的には、杖は結構好きな稽古である。うまくいけば、杖は軽やかに動き、何事もなかったように手に馴染む。まさに「今日は腕が少しばかりいつもより長いのだ」という感覚に襲われる。いやむしろ実際にはその感覚さえ消えて、それが自然であり、生まれたときからそのままのような具合になるのが理想だろう。逆にそれを邪魔する動作や持ち方、捌きを加えれば、途端に杖は重くなるだろうし、耐え難い修行やときには苦行をしているかのようにさえ感じられるのだ。ストレスを発生させるのはそのようなときではないだろうか。ほんの数百グラムのことで、それが何十倍の感触として跳ね返ってくる。だから、このときの重さというのは、ただ単純に計測できる重さのことではないだろう。
大事なのは如何に対峙しないか、である。それは、有機的なもの無機的なもの関係なくそうだ。対峙しないために存在を消すのではなく、ただただ観察する。要は、その一点にかかってくるのではないだろうか。

9月1日(火)

 ついに九月となりました。身も心もさっぱりした気分で迎えようと思い、まずは散髪。視界を遮っていた前髪を切ってもらい、全体にすっきりする。美容師さんによれば、最近髪が黒くなってきているらしい。幼少期から悩まされていた若白髪といえば聞こえがいいが、要は黒ではなく茶色っぽかった髪が黒くなってきている。健康ということだろう。もっとも美容院は、「そろそろ髪を(黒以外の色に)染めませんか?」という意味で尋ねてくる。これまでわりにいろんなふうに髪の色を染めてみたが、最近は、ここぞという面白さがないので、わりに静かにおさまっている。髪くらいは、自然なままもいいなあと思う。

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2009年9月15日 13:46に投稿されたエントリーのページです。

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