12月27日(土)
この時点で、年賀状を一枚も書いていない状況を半ば俯瞰的に眺めつつ、手元の作業を専念する。それは何かと言われたら、それはご想像いただけるとおり掃除である。
正月の準備もしなければならないと同時に、忘年会も残る年の瀬は何かと気忙しい。
お風呂掃除だけは何とか前もってしていたので、今回の掃除からは除外するとして、さて何から手をつけようかと考えた。先日お掃除部隊に参加したせいもあって、「掃除したい」という気分だけは高揚している。しかしながら、わたしの場合は、部隊編成するにも劇団ひとりならぬ隊員ひとりなので、隊長と隊員と指揮官と親方とサブと傍観者とうっかりはちべいまで、すべてオールマイティにこなさなければならないので、ちょっとさびしい。そして一人何役もこなすのは忙しく慌しい。
洗濯をし、布団を干し、こたつをあげ、部屋の電気の傘の埃を落とした。掃除機をかけ、シーツを変え、棚の物を移動していらないものは捨てた。そして、思い切って模様替えをした。それでもまだいくらか残っている。続きは明日だ。
昨日から一気に切れた。牛乳と卵と味噌と油などいろいろなものがいっきに途切れた。なんだか年末な気分だ。
12月26日(金)
ようやく冬休みっぽい日が来る。ああ、まだまだ何もできていないのだという焦りをよそに、ガーデンズへ、贈り物を探しに行く。昨日と違って人も少なくっていい。
12月25日(木)
クリスマスなのに雨が降る。
それも予定していなかったので、カバンのなかには、傘がない。
濡れて歩くには、ひどく降ってきたので、通り道にあった100均ショップで傘を買う。
財布から100円を出すと、すまなさそうな顔をして、店員が「すみません、105円なんです…」と言った。慌てて五円を出した。
クリスマスなのに稽古をする。
突然稽古が足りないと思い、会員のみなさんに呼びかけてみたら、案外参加者がいて驚いた。通常とは時間が違うので、誰も来なかったらひとりで、あるいは、数人になるかと思ったけれど、そんな心配はよそに淡々と稽古できた。
クリスマスなので、靴屋に行く。
靴の底が余りにひどいありさまなので、新しい靴を買うと心に決める。
気に入って履いているのは冬の靴なので、冬しか登場しない。かれこれもう数年履いているだろうか。ことしは、その靴底がだいぶ磨り減ってしまったようだ。これでは姿勢もいがむよというわけで緊急事態発生。靴を買ってもらう。
クリスマスなので、すき焼きを食べる。
おいしい肉をいただいたので、すぐさま、すき焼きにした。わたしは、すき焼きは関東風に作るのが好きだ。というよりもむしろその作り方しか知らないのだ。あー、おいしかった。ごちそうさま。
12月24日(水)
芦屋合気会の稽古納めと納会。
ことしも一年無事に過ごすことができました。何よりです。来年も精進したいと思います。目標を持って。
納会は大阪府内にて開催される。敏腕幹事さんのおかげで、参加率上々だった。ありがとございます。今年もお世話になりました。
12月23日(火・祝)
お掃除部隊に参戦す。
ことしもタニグチ隊長率いるお掃除部隊が結成されるので、朝から内田先生宅に出かける。
参加者はタニグチ隊長、キヨエ&マサコ、ヒロスエさ、ムカイさん、トーザワさん、タカトリさん、そして、わたしの8名である。昨年よりも人数が増えたのと同じ場所での掃除が二度目というのも手伝って、全体に掃除の感覚がよくなり、捗っているかのように感じる。しかし、場所によっては非効率であるという印象が拭えなくもなかったので、来年以降の課題としよう。
なぜか楽しみにしていたので、そのまま楽しい日となってよかった。お昼のブレークタイムをとり、昼食や夕食を掃除しているみんなで輪になって囲んでいると、ふとその風景が、引越しか法事に集まった親戚のような錯覚を覚える。
12月22日(月)
年内講義終了。寒かった。足が冷えて、今日も痛かった。年末の挨拶をして、試験日を知らせて、「では、よいお年」をと言ってみる。
12月21日(日)
冬至。果てしなく疲れていたのか、夕べは気づかぬうちにとても深い眠りについていた。昨日は、稽古に来た人だけで、これまでの稽古参加人口最高値50人を超すといった事態が発生し、流れも人数もほとんどそのまま途絶えることなく、納会へと続いたものだから、幾分疲れたのだろう。何をするでもなく、ただ人の多い場所は身体が疲れることがある。満員電車みたいなものだ。
満員電車に揺られるのは疲れる。それは、電車に乗っている時間が長いからではなく、微弱ながらも継続的な人口の多さが、時に人の何かを疲弊させるからだろう。ときには、何かを損ない、途絶えさせるのだろう。ある人は、その疲労的な何かを身体で理解しながらも、頭で理論的に処理する。またある人は、その疲労的な何かをまったく理解していないふりをする。そしてまたある人は、疲労的な何かを身体では充分に感じていても、精神的にはまだまだ大丈夫と押さえ込んだり、気づかぬうちに、それこそ「気づかぬ」ふりをしたりしているのだろう。あるいは、そういった現状でしか生きられないことに制約をかける。それとも、生まれながらにそういった、人の多い環境で育ってきたために、いまさらそうでないことのほうが不自然になっているのかもしれない。おそらく、わたしは、今考えられ得る、これらのいずれでもないのだろう。では何か。何なのであろうか。深い眠りの原因は、一元的なものではないとも思われる。簡単に言えば、人酔いだ。
年々、何事も感じやすい身体に変化していることを感じることが多い。それは見えるものから見えないものまで。わたし自身の判断なので、ふつうによくあることかもしれないが、合気道をしているおかげか、もしかしたら潜在的な何かが、あるときふとしたきっかけで何かが呼び起こされたのか知らないが(外的要因による刺激によって表に出てきたのか)、常々、身体意識に変化が起きている。以前よりも物事全般が感じやすくなっている。身体内部の変遷とでもいうのか。もちろん外部からの刺激があって内的な影響が起こるのだろうから、その善悪は関係なく、外的な要因によって身体が何らかに変化しないのはおかしい。このときの「変化しない」とは「反応がない」とほぼ同義語である。内的な変化も変遷も刺激も、何かをインプットすることによってアウトプットされるものだろう。
とまあ、ごたごたと並べてみたが、要するに、わたし自身の身体の疲れが、文字通り見えぬところで、蓄積されていたようにも思う。だから、今日は遅くまで布団をかぶっていたのだろう(それも二度寝)。しかしまだ今年は終わっていない。あと、まだ少し講義があるし、道場の稽古もある。納会といくつかの忘年会とそのほか、掃除や年末行事も控えている。休んでいる間もないし、落ち込んでいる暇もない(まったく落ち込んでもいないが)。
人情と義理と感謝によって自らが支えられていることを感じる年の瀬である。