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紅葉の岡田山

11月16日(日)

 小学校時代からの友人の誕生日だったと思い出す朝。なぜ思い出したかというと、カレンダーを見たからでもあるが、夕べ見た番組に、顔がそっくりな芸人が出ているのをみたからだ。しかし本人には一度もそのことを告げたことはない。

 市長選挙があるので、夕方とことこ歩いて選挙会場へと向かう。現市長の氏名を最近フルネームで知った。次は誰がなるのだろう。なんでも今回は、史上最多の候補者数だったらしい。明るい未来でありますようにと投じる一票。

11月15日(土)

 今日は大学で稽古。
 紅葉シーズンに、ここでの稽古は何よりも心地がいい。これで道場が広ければ、さらにいいのだが、文句は言うまい。
 本日は入試のため、学内が少々静けさのなかにある。入場規制のなか、そーっと大学に入る。そーっと稽古する。
帰りには入試も終わり、紅葉を愛でながら、歩く。
今しか見られない景色があちこちに散見される。せっかくなので、デジカメで撮ってみる。多用する初めての秋。

11月14日(金)

 あまりに体調がよくないので、すべての予定を取りやめ、心新たに家事に邁進する。
 まずは布団を干し、部屋の掃除機をかけ、洗面所を磨き、トイレの掃除をする。その間に洗濯ものを回す。何度もごみ出しに行き、洗濯機は三回ほど回したので、その分を干す。そのうち、だんだんと部屋が整っていく。いらいないものは捨て、机の少しだけ配置換えをする。皿を洗い、台所の掃除をする少し手前で日が暮れる。そして、疲れ果てる。
 炬燵も出したので、鍋にする。材料を買いに行く。ついでに、あんこも買う。最近、近所におはぎ屋が開店したようだ。あんこ好きにはたまらない。とくに、こしあんが好きで、丁稚羊羹なんて大好物ね。ということで、おはぎもいくつか買う。


11月13日(木)

 微かな靄がかかったみたいに頭のなかがうすらぼんやりしている。何をしようにもやる気が出ない。薬を飲もうにも飲む気がしない。ただただ頭がしゃっきりせず、凡庸な痛さが頭の中をかきむしる。
 こんな頭痛は久しぶりだ。

11月12日(水)

 道場に立つと、いっぺんで自身の呼吸が浅いと気づく。鼻づまりを起こしているから、きっとそのせいだろう。深く息を吸い込んで静かに吐いてみる。夕方まで稽古を続けるうち、深深と夜は更けていく。寒い。

11月11日(火)

 昨夜、家に戻った頃から、またもや頭の内部で、それも遠くで、頭痛がしていた。気のせいだろう思い込み、早めに休んでみたのだが、翌朝目が覚めてもまだ頭が痛いのである。加えて、鼻水鼻づまりまで起こしている。ついには悪寒までしてきたものだから、ああ、風邪だなと観念する。
 今日は思い切って休む。明日に備えて休みにする。休むのも結構勇気がいるものだ。と思ったとたんにがさごそと読みかけの本や読みかけのページや気になる動きについつい目が行ってしまうものだから、風邪が治る暇もあるようでない。鼻声。

11月10日(月)

 板間に素足で4時間もぶっ続けでいるというのは、よくよく考えてみると、身体によくない。寒いようだ。
もう身体が慣れっこになっているので、あるいは身に沁みているので、さほど気にはしないのだけれど、気がつけば寒い。ときには、それがどうした、の状況のときもあるが。いや、幼い頃からそうだったのかもしれない。

冬になると決まって、「さむいさむい」を連発して言う子どもたちがいた(って同じクラスの子だが)。「さむい」と身体が感じることを、そのまま素直に言うのはいい。それが数回なら許そう。事実わたしも言ったかもしれない。だが、「さむい」を何度も何度も、ひどいときには、一日中そればかりを口に出して、繰り返してばかりいるのを聞かされていると、(いいかげんにしてくれ!)と思うほうの子どもでもあった。わたしは。

口に出して言っている方は、別に誰かにそのことばを聞かそうと思って言っているのではなかっただろう。けれど、聞こえてくるのだ。「さむいさむい」が教室中で。もし、一日中言い続けて暖かくなるのなら、どうぞ好きなだけ言うがよろしい。だが、事実はそうではないのだ。「さむい」どころか「うるさい」だけなのである。

そういうふうにして、ときどき、やや物事に斜めに構えるふしのある子どもであった。しかし、それを声に出すこともなく、静かに心のうちで抱えていた。表現力に今ひとつ欠けるところが難点である。感じないのではない、表現が下手なのだ。

 表現が下手なのは、いまでもそうだ。「さむい」の話はまだしも、ほかの場面でも言えることだ。時折そんな傾向が災いして、結果的には損をしている。おそらく周囲のひとびとにとっては、何も言わないわたしは、「ただ押し黙っているわたし」であり、「何も感じてないわたし」であり、「静かなわたし」でもあり、見た目には同じように見えるからだろう。感じていることとことばが、表に出たとたんに、ちぐはぐになる。思っていたのはこれではなく、感じていたのはそれでもない。感情と表現とずれ。そんなもんでもないな。ときにはまったく逆のことが口から出てくる。単なるもどかしさだ。ジレンマなんてかっこいいものではない。

感じていることを感じているふうに、そのままに表に出せないことが招いた結果は、だいたい決まっている。わたしというものについて、まるで望んでもいないような誤解を相手に与えているのは、そのためだ。
たとえば、何かひとつの出来事があって、あれこれと思案したり、考えたり、話題にしたり、意見したり、笑いあったりすることがある。「聞き手」に徹しているときは、それで静かに相槌を打ち、「話し手」のことばを逃さないように聞くのもいいのだろうが、「聞き手」ではないので、何か言いたいことがある。でも、間が悪かったり、ことばに詰まってしまったり、感じていることがうまく伝わらなかったりで、あとになって、「あのときはこんなふうに感じていたのだ、思っていたのだ」ということが相手に知れるとき、だいたいは、表現が下手であるばかりに、十中八九、相手は驚くことになる。「え、そんなふうに感じていたの?」と。そうして、さらに、(まさかそんなふうに、繊細に、細かいところまで感じることができていたなんて、思いもよらなかった。気の毒なことをしたね。仏頂面なので、そんなふうに感じていたなんて考えたこともなかった。誰にもそれがわからなかったよ)とでも言わんばかりの表情を浮かべる。しかし、このような過去の出来事を、先の未来で伝えられるほど、つながりのある相手ならいいが、そうでない場合、一生誤解されたままとなる。それは悲しいね。

「ただ押し黙っているわたし」も「静かなわたし」も、相手がどう思うか、宛先は誰かということを想定した場合、ぐっと感情を抑えてしまうところがある。言えないのではなく、ただ押し黙って、ぐっと感情を押し殺してしまうところがあるのだ。敢えて言ってみるなら、言えないのではなく、言いにくいのだ。述べにくい状況によって、声が出なくなるのである。

そういえば、そんなこと、すこし前にもあったなあと、ふいにその状況が思い出されて、自分が情けなくなってきた。
 思いっきり表現したいのだ。今宵はなぜか、そう思う。素直にわたしの思いを表に出したい。意見を述べたい。などと書いてみると、思春期の高校生のような、未成熟な中身であるなあ。
 言いたいのはこんなことじゃないのにね。

11月9日(日)

 雨は上がり、風邪の調子もだいぶよくなった(ように思う)。
 薬を飲んで稽古に出かける。ほんとうは、薬を飲んで行くのは、よくない状態なのかもしれないのだろうが、稽古を休むのは、わたしにとって、もっと身体によくないことなのである。だから、いずれかを選ぶのならば、迷わず薬を飲むほうを選ぶ。
 充実した時間帯でたっぷりの稽古内容。おもしろかった。
 こういうときは、頭が冴えていたら、もっとよかったのだろうけれど。身体が時間内を維持できたことに感謝しよう。

11月8日(土)

 ひさしぶりの土曜日。それも稽古のない土曜日である。
 休みなので、早朝から山登りに行く予定にしていた。だが、朝から生憎の雨。山上の雨は慣れぬ者には、ときに危険をもたらす。ということで中止の報が伝わる。(同時にすぐさま、それでも登りに行きたい兵どものためのコースも用意されるとの連絡も入る)。昨日から喉の調子がいまいちなわたしは、大事をとり、いちにち、うちで過ごすことにする。
 まずは、登るときに食べるためにと炊いたごはんとしゃけを中心に、ごくごく簡単な朝食を摂る。山上で配る予定にしていたチョコレートも食後に食べる。
時間と共にだんだんと喉が痛くなり、鼻水が激しく出てくる。目の前がくらくらする。完全な風邪の兆候だ。薬を飲んで寝る。またむっくり起きて、ご飯を食べ、鼻水をたらし、鼻水をかんで、薬を飲んで寝る。これを何度か続ける。
 思ったよりも身体のなかは疲れが溜まっているようで、きょうはいちにち、溶けるかと思うほど、ぐったり横になっていた。朝寝と昼寝と夕寝と夜寝ばかりしていた。そんなひさしぶりの土曜日。

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2008年11月17日 10:56に投稿されたエントリーのページです。

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