9月7日(金)
どう考えても夏が戻ってきたみたいだ。
9月6日(木)
ことしは、うなぎをまだ丼ではまだ一度も食べていない。
食べるぞ。食べなきゃ。ああ、食べたい。
9月5日(水)
絞るよな汗が出るとは言わないが、やんわり汗ばむ稽古かな。
夏は夜(いや、もう秋のはずなんですけど)。肉の頃は更なり。肉の身は美味なり。
秋は夕暮れ。ならぬ日暮れ。気づけば日も暮れ、日も変わり。
冬でもない翌日は、「つとめて」正常に朝日を拝む。
9月4日(火)
暑いのもあって、夏場はあまり腕時計をしない。
職業柄あるいは立場上、着替えたり、時計をつけたりしてはいけない場面が多いので、腕時計をしている時間が短いこともある。時計をつけていても、ズボンのポケットにしまい込み、そのまま洗濯するのもよくある話だ。これで時計がオメガか何かであれば、きっと、ちゃんとつけるだろう。だが、持っていないのでつけることもできない(欲しいんだけどね)。
このところは、基本的に時計をあまりつけていない。とはいえ、だいたいの時間の見当はつく。腹時計である。なんとかそれで見当がつくものだから、余計に持たなくなってくる。でも、オメガであればつけると思う。
最近聞いた話では、どうやら「時計は腹時計だ」という感覚も隔世遺伝らしい。初めて知ったよ、じーさん。あんたってひともまた、腹時計で動いていたんだってね。
9月3日(月)
「特訓」という名の稽古。
随分上達したかに見える。すごいです。
9月2日(日)
韓氏意拳講習会の教練講習会のため、京都へ。
韓氏意拳には以前から興味はあったし、講習会に出向いてみたいと常々思っていたが、なかなか機会が巡って来なかった。それが先日、講師の守さんからご案内をいただき、今日という日に、初めて講習会参加と相成ったのである。
昼過ぎ、またもや巻き込まれ同行者H氏と共に京都へ。
もともとは、わたしひとりで行くつもりであったのだが、何の因果か、巻き込まれたらしい(巻き込まれる側は、「巻き込まれる」というその特性ゆえ、「巻き込まれる」状態は、特段、その変化に気づいていないのだろう。だから、おそらく、あとからたいへんなことにはなったりもするのだろうか?)
ともあれ、いつまで経っても京都ストレンジャー(京都がよくわからないのである)なので、講習会の会場を探しているうち、なんと数分遅刻してしまった。最初から、これではいけない。(何を隠そう「遅刻」はわたしの嫌いなもの「ワースト10」にランクインしている)。
仕方なく、愛想振り撒きながら、正直に「迷いました」と報告し、いそいそと受付へ。
着替えて講習会にこっそり参加。
会場内は真剣な面持ちの方々の姿が見える。講師の守さんの姿も見える。
そそくさと入り込んで、基本的な動きと少し進んだ動きを教えていただく。
形がよいと、最初に守さんから褒めていただく。ちょっとうれしい。動きが加わってくると、また褒めていただける。さらにうれしい。褒めていただくと快感が全身に伝わる。三度の飯より、褒めてもらえるのが、じつはうれしい性分なのだ。
「そう、その感じ」「ハイハオ」の言葉がほんとにうれしい。ひととひとり、見回っていただくなかで、合気道との関係やら、関連事項もさまざまにお教えいただく。これはすごい。いろいろな閃きと感触が身体の中で組み立てを変えていく。ああ、すぐさま実践してみたい。
講習中は動いてばかりいたので、まるでメモを取らなかった。なんとか思い返してみると、動きの中で頂いた言葉が、いま身体の中に少し染み込んでいる気がする。
気持ちと動き、行動が一致すること。
力を入れない。形にとらわれない。
頭で考えない。考えてはいけない。
相手に頼らない。それは依存につながる。
立体的な人間の身体における動きを取り入れる。
自分があることが大事。しかしそれは、「我」とはまた違う。
自然の流れに逆らわず。
構造体であることの意識。
わからないやつには、わからないの話。
身体を使って行うことは、世の中にさまざまにあるが、今日は一気に身体の中が開いた気がした。「自然」ということばの意味を少しだけ身体で考える。
韓氏意拳。これは哲学なのだと、身と心をとおして実感した次第である。
だから、きっとまた行くだろう。身体が面白がっているのだから。
9月1日(土)
稽古のあと、山ほど餃子つくり(つくってもらい)、焼いて、茹でて食べた。うますぎた。