2月4日(日)
下川正謡会の新年稽古会が、終日執り行われた。
昨年のこの会の日は、その数日前から高熱を発してダウンしていたため、休んだことが思い出される。ことしは穏やかで暖かな冬ということも手伝ってか、わりに健康に舞台に立たせていただけることができた。まずはそのことに深く感謝する。そして、出させていただけることにも。
仕舞は、「中の舞」から「班女アト」のシテ、「安達原」のワキツレというのが自身にいただいた役である。役者になるのも難しい。地謡もいろいろとさせていただいた。
会のあとの打ち上げでは、たくさんの方がお気遣いくださって、わたしにあれやこれやの食べ物をくださった。こうした体型をしているせいか、あるいは顔つきのせいか、いつまでもちっちゃなこどもに見えるようだ。
2月3日(土)節分
こうもあちこちで恵方の太巻きが売られていたり、見せ付けられたりすると、まるで食べることが当然のよう気になってくる。世間の流行はこういうふうにして作られていくのだろうね、などと皮肉なことを思う。太巻きなど、さほど長い伝統を持つものでもなかろうて。関西だけの風習だろうか?それも近年においての。
それでもあまりに見せ付けられると、ちょっとおいしそうだなあ、食べたいなあと思ってしまうものである。人間というものは、流行とは関係なく食欲はあるものだ。腹を空かせた身体で入った店ではうっかり太巻きを買いそうになったが、あまりおいしそうにも見えないので止めた。太巻きも太けりゃいいってもんではなく、見た目が大事。そうなると、自分で作るのもいいかもしれないが、それほどの気力もなし。
しかし、神様はいるのだろうか。節分の神様だろうか。夕刻、知人の方の連絡があり、わざわざ自宅まで、たくさんのうまい太巻きを届けてくださった。たいへんにおいしい。すごい!念じれば叶うものである。ありがとうございます。
太巻きのなかには、ことしの恵方は「北北西」。信じて、まじめに「北北西」に進路を取った。幸せと健康を祈って、太巻きをがぶりとかぶってみたのである。
2月2日(金)
突発的なくしゃみに襲われる。おそらく夕方の5時くらいがその始まりだったと思う。何がどうしたわけか、ほんとうにわけがわからぬうちに、くしゃみばかりが出てきて、止まらなくなった。風邪だろうか、花粉症だろうか。そんな思いが一瞬頭をよぎる(そのころはまだ頭が冴えていたのである)。いずれにせよ、早く治したい。日曜には、会もあるのだし、くしゃみなんてしている場合ではないのだから。そんなことを思える余裕がまだあった。
6時を過ぎたあたり。やや顔色が変わってきた。くしゃみと共にティッシュペーパーが手放せなくなる。水分を補給し、顔を洗い、すこし身体を活性化させるが、通常の身体のバランスが保つのは30分が限界となる。仕方なく、薬でも飲もうかと思う。だが、運の悪いことに、こういうときに限って、いつもと違う鞄を持ってきていた。当然、中身もいつもと違っている。いつも鞄の中身には、だいたいどの鞄であれ、決まって常備薬的なものを入れている。急な腹痛や頭痛くらいなら、何とか耐えられるようにしてあるのだ。それはわたしが小学、中学、高校、大学とずっと頭痛持ちで悩まされた故の行動である。それでも大学を卒業する頃まで、頭がどんなに痛くとも薬にはほとんど頼らず、自己治癒に近いかたちでその痛みに耐え、その時間をやり過ごしていた。幼い頃から薬に頼って痛みをやわらげるのはいけないことだと、どこか良心が咎めていたのだろう。だから、薬を飲んで治すというのはここ数年の行動である。ここ数年はそれと共に、頭痛がだんだんと軽減され、ほとんど感じなくなっていった。環境の変化がひとの頭の痛さまで大きく左右させたひとつの実例かもしれない。
薬がなかったので、同じようにくしゃみに耐え、時間に耐えた。目薬すら忘れていた。目はしょぼしょぼし、頭がぼんやりしてきた。顔と鼻と目を定期的に水で湿らせ、なんとか、持ち堪えさせた。ただただ、早く布団に入り、薬を飲んで眠るだけが、このときのわたしにできる唯一にして無二の治療法であり、思考であった。
2月1日(木)
2月になるとややゴキゲン。
1月31日(水)
イ・ヨンエと香取慎吾は、同じ誕生日だったのか。この前のスマスマで、このことにはまったく触れていなかったな。
1月30日(火)
映画を観よう!おもしろい映画を!今は何がおもしろい!?
『不都合な真実』、『ディパーテッド』『あなたを忘れない』『それでもボクはやってない』『マリー・アントワネット』『ユメ十夜』。それとも長く続いている『武士の一分』?『プラダを着た悪魔』?
1月29日(月)
夕刻、下川先生のところで稽古。
何度やってもうまくいかないのだが、毎回通いつめていくうちに、少しずつできるところもある。稽古を続けるうちに、永遠にわからないところが増え続けるんだろうなあと思う。「自然に」動きができるまでには。それにしても笛の音はきれいである。
1月28日(日)
京都国際マンガミュージアムに行く。開館記念の「世界のマンガ」展、そしてミュージアムそのものを観るためである。
展覧会は、そのタイトルが示すとおり世界のマンガの一連の流れが、ざっくりと示されていた。アジア近隣地域では、マンガの受け入れ態勢は寛容である。寛容どころか、あるいは寛容になりすぎて、海賊版がどんどん出ているのが実情である。このあたりまでは既に知られたことだが、遠く欧米では、やや事情が違うようだ。マンガの受け入れ方は、当然のようにその地域性がはっきりと影響する。影響下における出来事のいくつかは、今回初めて知った部分もあった。
日本では「マンガ」というカテゴリーが存在し、良くも悪くも、マンガが何であり、どういうものであるか、だいたいでも知られている。(その辺のコンビニにでも行けばすぐに買える)。だが、当然だが世界は広い。マンガがその国のなかに入って来たにもかかわらず、まだまだそういう受け入れ態勢が、寛容でない国もある。たとえば、フランス。現在もマンガブームであり、翻訳本が軒並み並んでいる。翻訳本を読み、楽しみ、コスプレする若者がいる。その反面、文化的なもの-それは高尚な絵画や美術作品やデザインが主流-とは、まったく趣をことにするものとしてマンガは理解されているらしい。だから、「マンガ?ああ、あの絵の描いたコドモのおもちゃみたいなものね」的な意識しかないところもあるようだ(おお、こんなところでも二極化。さすがに元祖の国かしらね)。マンガは、受け入れ側の環境、文化的要素、地域性などによって、影響も理解の仕方も、大いに変わるものだと改めて感じる。見方も読み方も需要大勢も、まったく変わるものでもある。これからのフランスの底上げ的な変遷に緩やかに期待して次のコーナーへ。
スペインやポーランドは、まさにこれからというところである。これらの国にまで日本のマンガが影響を及ぼしているとは知らなかった。次第に日本のマンガが、翻訳され、それが認識されてきている段階である。この先、どうなるだろうか。
さて、日本のマンガについては、マンガの祖と言われる鳥獣戯画に始まり、雑誌媒体の流れを辿る。日本では単行本ではなく、雑誌によって初めてマンガが世に送り出される。その形式を追うといった仕組みである。時系列的に並べられたそれら雑誌によって、どのような雑誌が、どのような時代に発刊され、そして今なお継続しているのかが見て取れた。もちろんマンガ雑誌の傾向や趣味もざまざまであり、現在まで続いているものもあれば、幻のものもあり、おそらく数号で廃刊しただろうなあと予測させるものもたくさんあった。
実際に雑誌を手にとって中身を見ることができるのもあった。一番おもしろかったのは、やはり60年代発刊のマンガ雑誌。マンガの中身はもちろん、時代を思わせるプレゼントコーナー、広告記事、写真のほうにもまた気をとられてしまった。ただ古臭いというだけでなく、妙な興味をひかれた。
また、マンガの雑誌には、60年代以降くらいから、表紙にはたいてい作者の名前が書かれるようになっている。表紙を見ながら、一度も見聞きしたことのない作者氏名が散見されることに気づいた。これはもちろん、こちらの無知を棚に上げて差し引いて考えてもといった条件付の話である。条件付きで考えても、あまりに知らない人が多く、驚いた。きっと、デビューしてその後、あっという間に消えてしまうひともいただろうなあと、マンガ業界のゆくえを思う。雑誌の表紙は、雑誌そのものの変遷、マンガの形態、そして、いかにインパクトの強い作者=書き手の存在があったか、それを明らかにできる材料として見るのもおもしろかった。誰がいつごろデビューして、第一線で活躍してきたかをいっぺんに明らかにすることもできるだろう。
それにしても、翻訳せずにマンガを読める、日本語を母国語とする日本に生まれてよかったとつくづく思う。
さあ、帰ったらマンガを読もう。
1月27日(土)
午前中はお能の稽古。主に中の舞。なかなか難しい何度やっても、いや何度も繰り返すうちにわかってくることや、注意すべき点、身体の向きやら、足の捌き方、目の方向、腰の位置など、いろんな事柄が付随してくる。うーーーーーーーん。むずかしい。
午後は合気道の稽古。主に相半身片手取り。何度やっても新しい発見と新しい解釈と新しい見方と新しい驚きがある。うーーーーーーん。これまた難しい。
夕方は本屋を物色。気になる本や手にとって見たかった本、新刊が出ていないか調べたかった本など、久々の本屋をぐるぐる回る。大学の図書館に行きこそすれ、それ以外は、このところまとまった時間が取れなくて、まともに本屋にも行けなかった。
あちこち見るうち、内田先生の『下流志向』を発見。即購入。ぬふ。