7月9日(日)
 久しぶりに居合の稽古に行く。気づいたことのいくつか。
・	肩甲骨をうまく使う。
・	胸を割る
・	肩と張らない
・	肩を固定しない
・	刀は身体全身で斬る
・	刀を置かない、置きに行かない
・	上半身をうまく使う。斬る側と逆の半身を引くなどの工夫。
・	下半身をうまく使う。斬る側と逆の足を引くなどの工夫。お留守にならない
・	足と腕と胴体は繋がっているとわかること
・	心地よい斬りを発見すること
・	身体はムズカシイ!
・	さて、どうやったいいのだろう。それが問題だ。
7月8日(土)
昼からの合気道の稽古では、ほぼ3時間すべて、先生の受けを取らせていただいた。以前主将をしていたときは、このようなことは度々あった。このところは少ない。このところは、稽古時間にすれば、だいたい半分くらい受けさせていただいている。あとの半分は背の高い、身体能力が優れた気錬会OB先輩と交代になる。わたしは肉付きこそよくとも腕っ節も強くないし、力もない。背も高くないし、手足が極端に長くもない。合気道暦も長くない。とりたてて運動能力が優れているわけでもない。身体的に優れたところは見受けられない。にもかかわらず、それを扱ってくださる先生がおられる。たいそうすごいことだなあといつも感動してしまう。感動しているうち、ぼーっと時間が過ぎてゆく。ぼーっと過ぎ行く時間のなかで、腕が長くなりたいなあ、合気道がうまくなりたいなあと思いつつ。
稽古時に産経新聞の方が取材に見えていた。内田先生は大人気で大忙しである。取材も兼ねたその方へのお話で、内田先生は、「合気道のとき、誰かを前に呼ぶけれど、それは呼ばれた方の受けの稽古である」ということをおっしゃっていた。すごく幸運なことだ。というのも、今日のわたしは、とてもたくさんの稽古をさせていただいたのだから。誰よりもたくさん稽古させていただいていることになる。その事実は頭ではわかっている。けれど、実際のところ実感が現れるのは、しばらく経ってからだ。じんわりと幸福感がやってくる。このちょっとした時間差になぜか申し訳ない気がして、また一生懸命稽古しようと思う。受けはやっぱり楽しい。三度の飯より受けが好きだ。三度の飯より好きなことは、ほかにもたくさんあるけれど、受けるのはやっぱり楽しい。
取材の方もご一緒に、稽古後は内田先生のお宅に移動し、新入生・新入会員歓迎宴会となった。例によって一品持ち寄りである。今回のコンセプトは「あたらしいもの」。「あたらしいもの」を「新もの」と理解して、新ジャガ、新タマ、新そらまめなどを使ったポテトサラダ、近江牛とタマネギ、肉じゃが、ソラマメのかき揚げが並んだ。「新製品」と理解して、今年新発売の焼酎、さっき出たばかりのシャキシャキサラダが出る。「新技」の料理、「新」しい味の麺類、「新機軸」なもの、「新鮮!」なのものある。「あたらしいもの」を「にゅー(NEW)」と理解して、多くの乳製品をつかったもの、ニュージーランド産のボトルなど、お約束の品々も登場。とはいえ、これらの食材、常時30名ほどの宴会人数分が出るわけではない。つくった側の技量と采配で出される分だけなので、あっという間に消え行くものもかなりある。ときには話そっちのけで勢い皿に群がり、取り合い奪い合いの図になる。「ない!」と言って叫んだときには時既に遅し。「ほんとうにない!」のである。あるのは、すでに獲得した者たちの胃袋のなかだけなのだ。
宴会では、いろいろな新しい方、これまでの方ともお話できる貴重な機会だった。合気道の話をすると長くなるので、これまでわりに避けてきたところがあったが、そろそろとコップの水が溢れるように、言葉が流れていきそうなこのごろである。内田先生、ありがとうございます。
ところで、新しい方と話しているうち(誰だったかもう忘れましたが)、「長男だから」という言葉を何度となく耳にしました。時と場合によっては、そういう解釈の仕方もあるんだなあと思ったわけです。どこで使われていたのかも忘れましたが、出生順位を理由にすることすなわち環境を要因にして、自己生成の因果関係を捉えようとされていたのでしょうか。あるいは、素行の発端について説明するとき、環境や生成してきた家族構成のなかでの役割分担を提示することで、何らかの説明を省く/単純化する/それとなく察してよ的な態度をとることにつながるのでしょうか。こういった類の言葉を使ったことがないだけに、新鮮に聞こえました(注:わたしは長男ではない)。結構、一般的な言葉なんですかねえ。これって。
7月7日(金)
 6Bの鉛筆少年は、筆箱の中身を自慢した。鉛筆をたくさんならべて見せてきた。そのくせ筆箱に消しゴムを入れてくるのを忘れて、困った顔をした。親切なひとなら、にっこり笑って、「忘れてはいけないよ」といって貸してあげるのだろうが、世の中いい人はいても、それが親切なひととは限らない。ついこの前買ってもらった新しいカバンを、うれしそうに何度も開けては、何度も閉じて、見せてくる。ポケットが多いことを自慢する。
そして話しかける。「ねえ、先生」と話しかけてくる。「なに?」と答える。
「ねえ、先生」。また話しかけてくる。
「ねえ、先生」。いったい今日は何度この言葉を言うのだろう。
「ねえ、先生。消しゴム忘れた」「仕方ないね。貸してあげよう」。
7月6日(木)
今日も暑いですね。同じことばかり書いてすみません。でも、暑いんですって。
7月5日(水)
 雨が降ったり止んだりする。
急遽仕事に呼び出される。
せっかくなので、笑い飛ばして帰ってくる。
結構笑いをとるのも難しい。
笑いは計算でやってはいけないし、考えてやってもいけない。
一番いいのは笑ってもらうつもりじゃなくて笑いになったり、愉快になったりするのがいい。
だが、そういったよい笑いは、いつどんなタイミングで来るのかわからない。
 タイミングを計ってもいけないし、ぼんやりしていてもいけない。
 なんでもないときでも、笑いがあれば、さらにそれがいいことになる。