6月22日(木)
木曜日の雨って多くないですか?先週も確か、雨、だったような気がします。それもかなり激しい雨が。
6月21日(水)生なっちゃんに1000点。
ふとした拍子に越後屋さんから依頼を受けた。内容は、「本日会場にて越後屋を探すべし」。「なお、このメールは5秒後に消滅する」ことなく依頼データは無事に手元に残っている。
今回はさほど重要任務も含まれていなかったので、難なく会場に辿り着き、越後屋さん発見。『MI:Ⅲ』のためには、探し当てなければ全てが始まらない。インポッシブルではいけない。何事もポッシブルでなければ先へは進めないのである。
試写開始前、トウキョーから初めての新幹線でやって来た主演のトム・クルーズと監督のJ.J.エイブラムス、プロデューサーのポーラ・ワーグナー、共演のケリー・ラッセルの舞台挨拶がある。そして、あの「なっちゃん」も登場。
ときおり極度のミーハーになるため、トム登場に喜んでしまった。だが、それと同じくらい「なっちゃん」に喜んでしまった。もちろん初めての生トム(生ハムではない)は、10メートルくらい前で見ると、「やはりスターだ、かっこいい!」の感想を抱く。生なっちゃん(ジュースではない)も初めて見た。テレビや雑誌で見るより大分小柄な印象を受ける。陽気な方である。
映画は、たいへんスピード感溢れるものだった。
かなりおもしろい。観て損はない。おもしろ~い!これはオススメです。
帰り際、とあるクルーズ似の方から、とあるトムのサインを頂いた。なかなか手に入らない世界でひとつの激レアもの。せっかくなので、ここで自慢したくて仕方ないのだが、ここにはうまく画像が写らない。ご興味のあるミーハーな方には、直接お見せしたいものである。
6月20日(火)
最近気になるのがベビーカーを押しながら携帯電話を使用しているひとの姿だ。駅構内などでときどき見かける。別にベビーカーが突飛に見えるわけでも、携帯電話を使うことに文句があるわけでもない。その両方が同時に使用されている風景が、なぜだか非常に奇妙なものに映ってしまうことがある、ということが言いたいのである。
ベビーカーを押しているひとは、十中八九女性である。おそらくベビーカーに乗っている子の母親だろう。この姿から、現在の母親世代もまた、簡単に携帯電話を持つ時代になって久しいことを意味すると言える。それはそれで結構である。老人用電話もいくらか出ているご時世だ。それより若い世代が携帯電話を利用するのは、ごく当然のことだろう。
しかしこれがなぜ奇妙な風景に映るのか。何ともいえない感情がわたしには毎度のように湧き起こるのである。携帯電話を使うといっても電話をしているのは、ほとんど見たことがなく、必死になってメールを打っているかサイトを見ている姿が多い。片手でベビーカーをごろごろと押しながら、もう一方の空いた手で電話のボタンを押している。目は当然画面に向かっており、ベビーカーの主役であるわが子の方には見向きもせず、たまに「わー」とか「がー」とか、口だけは言いながら、手と目はそのままの場所なのがほとんどだ。
何とも嘆かわしい姿ではないか。いったいどっちが大事なのだろう?と思う。どっちが大事などという比較の問題でもないが、そんなふうに見えてしまう。(そもそも「どっちが大事」などという疑問を抱かせてしまう辺りが問題かもしれないが)。
「私だって、日々子育てでしんどいのよ。自分の時間も持てないくらいに忙しいのよ。ベビーカーを押すときくらい自由にしたっていいじゃない」。
なるほど、おそらく、そういう向きの声もあるだろう。忙しいのはほんとうのことだ。子育てに暇はない。ゆとりも少ないだろう。自由にできるときくらい自由にしたいのも当然だ。それは物理的にも精神的にも。それはそれでわかる。だが、やはり「?」が付くのである。
何もベビーカーを押すのは女でなければならないとは思わない。子育ても同様だ。女もできる子育てなるもの男もしてみんとてするなり。やってみれば誰でもできる。子育てをする性別の問題ではない。事実ベビーカーを押している父親らしき人物も、携帯電話とセットで見かけたことがある。
問題は、性別どちらであれ、ベビーカーを押しているひとが、携帯電話に現を抜かしている現状を目の当たりにする度に、どうも釣り合いのとれないギクシャクしたものを感じるということだ。ある種異様な組み合わせに見えてくることもある。果たして、誰もがそんなに忙しいのだろうか。
未だ納得のいく理論は構築できておらず、ただその風景が奇妙だという自身の「感覚」でしかない。だが、こういうのを見ると、いったい何が中心で動いているのかわからなくなってくる。ベビーカーを押す時間を惜しんでまで、あるいは押す以上にメールやWEBサイトに目をやることが大事なのだろうか。それほど切羽詰った状況なのだろうか。そういう親御さんに育てられた子ども行く末がすこし気になってしまう。
もしかしたらわたしの感覚の方が、世代が古いのかもしれない。現代において、既に何かしながら、子育てしながら携帯電話を使うことは、当たり前になっているのかもしれない。でも、当たり前だったらそれでいいのだろうか。わたしは子どもを持つ身ではないが、どうも変なのである。何かがおかしく感じるのである。この強烈な違和感を持つ限り、今日もまた、それを奇妙な風景を横目でそっと見過ごしながら、隣をそそっと歩いてしまうのだろう。
6月19日(月)
二日酔いにもなれない翌朝を迎え、朝から残っていた仕事を片付けた。じっくり見直し、近畿地方北方面に送信。これでようやく「あと少し」という状態になった。そういう実感を捉えることができそうな段階に入ってきた。がんばろう。もう少しだ。うん。がんばれ。
このところ暇があれば山下達郎を聴いている。ちょっとした疲れを癒してくれるようでいい。声が邪魔にならないので聴きやすいのだろう。どうもキンキンした響きのある声は、いくらいいものだとされていても、五月蝿くて聴けないのである。耳というより頭が痛くなるのだ。
いつだったか(って随分昔になりますが)、世界の主な音源がレコードからCDに変わった。わたしはCDを聴いて初めて吐き気がした。そのときの感触はいまでも覚えている。なんだか無機質で、一気に気持ち悪くなったのだ。歌っている歌手が悪いとか、へんてこりんな音楽だったということではない。どちらかといえば、好きなものを好きな時間に、好きなふうに聞こうとしていたと思う。CDという媒体そのものに酔ってしまったのだ。「げろろおおおお~~~」と吐いたわけではないが(だいたい吐くなんて人生で数えるほどしかない)、妙な胸のむかつきがあった。それからしばらくは、CDを聴いたときに起こる胸のむかつきがあるのはわかっていながらも、聞きたい気持ちに負けて買うなどを除き、ラジオ専門、レコードプレーヤーの人間だった。だから初めて聴いたビートルズも、初めて聴いたユーミンも全部レコードだった。
それでも慣れとはたいしたもので、あるいは、人間はタフなものなので、気が付いたらCDも聴けるようになっていた。初めて感じたあの胸のむかつきを忘れたわけではないが、以前よりは大分普通の感覚で聞けるようになった。今でも時々思う。あの胸のむかつきは、なんだったのだろうかと。ついでに言えば、MDにはそのような気持ちの悪い感触を抱いたことはない。それでも、MDよりは、どちらかといえば、カセットテープの方が聴きやすかったりする。結構20世紀アナログ人間だなあ。