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東京奇譚

11月22日(火)

 ストレスで身体が歪むこともあるようだ。


11月21日(月)

 健康診断。
 身長と体重をいっぺんにはかることができる計測器に乗ったら、何の反応もない。
どうしたのだろうと思案していると、「あ、すみません。これはエラーが出てます。そっちのを使ってください」と言われる。なんだか変な感じ。わたしが重かったの?低かったの?
採血で注射針をじっと見ていたら、「たおれないでくださいよ」と言われた。自分の身体から流れ出ていく血を見て倒れる人もいるのだろう。血を見ていたら、そしてそれがどくどく注射器のなかへ流れていくのを見ていたら、生きているんだなあとさえ思えた。さっきまで、わたしの身体の中にあったのだよ。最近献血してないなあ。


11月20日(日)

寝違えたのか首が痛い。シップを貼ると患部に効いた。貼ったと治るものでもなし、暑さがじんわり響いてくる。
朝から荷物が届き、注文していた品物が無事に届いたのでとてもうれしい。
洗濯機をまわす。洗濯物を干すと風が冷たくなったなあと思う。
ところで、海の向こうの松井選手は、先日ヤンキースと4年間で61億の契約更新をしたらしい。でも、実際それがどれくらいの数なのか、とても想像しにくい。たとえられる数値がわかり肉。地球上の人間の数?それもわかりにくい。
また、風邪だろうか、喉が渇く。今日だけでコーヒーを何杯飲んだのか。炬燵には、半纏とみかん。


11月19日(土)

 自転車がパンクしたようなので、自転車屋さんに持っていく。
修理に多少の時間がかかるというので、預けて帰ってくる。自転車の緊急入院(一時)みたいなものだ。
 昨日、通りすがりの親切なおじ(い?)さんにタイヤの空気を入れてもらったところだけに、悲しい。いいおじいさんだったな。(わたしは昔から、ときどき哀れなちっちゃい子に見えるらしい)。おじいさんに助けてもらっただけに、悲しい。
 それにしても寒い。もう冬だ。


11月18日(金)

 またしても喉が痛いので、薬を貰いに行く。いつもと同じくらいの時間に行っているのに、いつもより人が多い。世間でも風邪が流行っている模様。気をつけなくては。
インフルエンザの予防接種を受けに来た他部署の方に遭遇。わたしも受けようかと、実は最近考えている。しかしその前に体調を整えなくては。


11月17日(木)

 ことしのボジョレー・ヌーボーは、うまいらしい。


11月16日(水)

 昼ごはんを食べる気がしない。


11月15日(火)

 シュツトガルト・バレエ団の「ロミオとジュリエット」のチケットをいただいたので、大阪フェスティバルホールまで観に行く。(素敵なチケット、ありがとうございました)。

 身体の柔らかさと滑らかさと動きの細やかさに感動の連続。
 ぬるんと液体みたい。どこにでも沁み込んでいくみたい。
細いはずのバレリーナやバレエダンサーのはずなのに、舞台の上では随分と大きく見える手足が美しい。美しいものをできるだけたくさん観たい。

 ジュリエット役に、アリシア・アマトリアン
 ロメオ役に、フリーデマン・フォーゲル

 シェークスピアは偉大だ。
 どれだけ翻訳されても翻案されても、場所を変えても素材を変えても、何となっても観ることができるものになるなんて、すごいことだ。古典の可能性は大きい。シェークスピアはやはり偉大だ。


11月14日(月)

 大学1年のときの「オーラルコミュニケーション」の講義担当は、外国人の非常勤講師だった。
彼は最初に自己紹介をしたとき、「私は吹田市に住んでいます」と言った。続けて、「ああ、おなかが空いた」と言った。しかし誰にも受けなかった。関西人はいささか厳しく、新入生はどことなくのりが悪い。さらに誰もがギャグ感覚を持っているわけでもないのだ。
「そのままランチしよう」と教室を出て行ってしまったおなかが空いた講師(というのはウソ)は、どこまで受けを狙っていたのだろう。いまでも吹田に住んでいるのだろうか。そしていまでも変わらず、「おなかが空いた」で、最初から掴めないツカミを繰り返しているのだろうか。


11月13日(日)

 ひさしぶりの休日。
これで何もせず、ゆっくりといちにち休むことができたら、どんなにか幸せでどんなにか満足だろう。
けれども山積みになった仕事を片付けなければならないので、そうもいかない。
よって今日も睡眠不足は解消されることがない。
せめて睡眠だけでも充分にとることができたら、すこしは、あちこちに伴う痛み-そう、それは心身ともにという意味だ-を解消することができるのだろうに。
といいながらも結構な休息をとる。


11月12日(土)

 昨日、大量に作ったカレーがまだ鍋にある。
材料を切って煮込む。
ルーには、あれこれと市販のカレールーをぶち込んで、そこいらにあった調味料を入れる。あとは初の試みとして、赤ワインがあったので、それもすこし入れて数時間煮込む。
自分で言うのもなんだが結構うまい。
調子に乗って、すったリンゴを入れてみたら、さらにうまくなった。いいことだ。煮込み始めて間もなく、ニンジンがなかったことに気づいた。だが、買いに走るのも面倒で火にかけた鍋を切るのもなんとなく気兼ねし、さほど大きな影響もないだろうと無視して、ニンジン抜きカレーを作ることにした。まるでニンジン嫌いのこどもみたいだ。多少彩には欠けるが、まあ、いいか。


11月11日(金)

 喉の調子がまたおかしい。
 夕方駆け込んだ病院では「まだ腫れていますね」との診断。いったいいつになったら、まともな喉に回復するのだろう。(続、闘病らしき日記)


11月10日(木)

乾いた井戸には、かつて湧き出る水があった。
水は、まさしく留まることを知らないほど湧き出ていた。
湧き出る水はやがて溢れる水となり、果てしなく続く大地に沁み込んだ。大地の渇きを潤し水は大地に恵をもたらすのだった。
しかしそれは、乾いた井戸の話である。乾いた井戸に溢れる水の話なのだ。
乾いた井戸。カワイタイド。皮痛い度。かわいい態度。
われわれは、気づかなければならないのは、そこなのだ。


11月9日(水)

 秋の夜長は読書です。ということで、この頃しばし読書にふけっております。
幸せなことに最近は、満員電車というものとはとんと無縁な生活をしております。ゆえに、「電車の中の読書時間」が、以前よりも極端に減りました。その分、うちで本を読んだり過ごしたり大学にいたりしますので、時間の多くは移動したわけですね。
電車通勤あるいは通学というのは、満員であれば、あまり歓迎できる代物ではありませんが、空いていれば、読書時間として有効に使えるかもしれません(これはさらに、「本を読むスペースを確保できる」という条件付の話ですが)。
よほど眠たいとき以外は、電車の移動時間に何もせず、ぼーっとそのまま電車のなかで過ごすのはかなり過酷ですし、それにかなりもったいない。少なからず通学経験を持つ身としては、斯様なことを思います。

さて、しかし、どうして斯様なことを思うのでしょう。
あ、なあんだ。
読書の秋?
たしかに。
そして読書週間なんだそうです。いやはや知りませんでした。
幼い頃からの刷り込みとでも言いましょうか、知らず知らずのうちに習慣化されているのですね、こういうの。「この時期には本を読むんだ」という刷り込みがたぶん身体のどこかに。だから「秋の夜長に読書」なーんてフレーズが頭を過ぎるのでしょう。

んで、最近(でもないんだが)読んだひとつは『東京奇譚集』。
恥を忍んで言えば、「村上春樹」というネームだけで本を買うことはありませんが(買ったとしても別に何ら損なこともありませんが)、本屋に並ぶのを見ると訳もなく、手にとっていることは、よくあります。まあ、間違っても村上春樹。いいんです、別に。間違っても大したことじゃない。間違っても。ぶつぶつ。(と意味のわかりにくい話ですね)。

 今回は意外な感じでした。
登場人物にちゃんと名前があって、背景があって、個人があって、個人が作者からかなりかけ離れていて(というのは、哀しくなるほどおもしろくなかった前作『アフターダーク』もそうでしたが)、これ以外の作品にあるような、敢えて言えば、『ノルウェイの森』以前にあるような、どこか作者の村上春樹のようで村上春樹ではない(べんべんっ)といった誰かが遠くから覗いているような感触というのか、思いのようなもの(が、わたしにはあったわけですが)ほとんど感じられなかったのです。ちゃんと「その世界の物語」いえ「奇譚」としてだけ成立している。こんな当たり前のことが当たり前に、新鮮に感じました。
内容は、その名も「奇譚集」なので、何者か、どんなものなのか、よくわからない世界の現実味のない話ではあるんです。
個人的には、この手の奇譚というか(「偶然の旅人」なんてまさにそう)、霊とか信仰とか神とかつながりとかそういう類のものについて(信じる信じないという前提以前に疑ったこともなければ、探りを入れたこともない)、「こういうことって、よくあることだな」的経験が日常的に思っています。また、その手の体験もいろいろとあるし、実際経験してきたこともいくらかあります。
偶然的な事柄が「ことば」をもって羅列されると、結構すっきりしたり、うれしかったりします。単に文章力の問題であり、作家のテクニックといったことも理由でしょうが、「ことば」にしたのに薄っぺらさがないのが相当よかったです。かといって、万人受けする話とも思えない話です。なぜかそう思います。しかし、それでも、なんでかわたしは満足しました。ああいう話が好きなんでしょうね、きっと。そうです、好き嫌いというか体質が違うと読みにくいと思います。

ところで、気がついたんですが、村上作品を読むと身体のつくりが内部から変わるのか、それとも浸透しやすい何かがあるのか、文体を見ているうち、ふと陥る感情があります。
それは無性にものが書きたくなる(作品、事物のジャンルを問わず)というものです。誰かと無性に話したくもなります。無性に手紙を書きたくなるのは、作品を読んだあとかもしれません。(「じゃあ常に読んどきなさい」とは天の声)。
異様にことばを使いたくなるのは、たしかです。使いたくなる理由の説明そのものを拙いことばでしか表現できないのですが、急に足りなくなったかのように「ことば」を吸収したがるのです。ことばに飢えてしまうのです。ある意味、この「ことば」の飽食のご時世に、さらに「ことば」を渇望する。ああ、ことばよ、いずこ。


11月8日(火)

 時を超えて大きくなれるのなら、それもいい。
 秋の夜長になる頃には、早くも空には月の顔。クリーニング屋のおばさんは、優しい声で「さようなら」と言った。


11月7日(月)

 静かにゆっくりではあるが、しかし確かな音を立てて、扉は開いたのである。


11月6日(日)

 海の向こうにおめでとう。
でも、今日でよかったのかな。明日になるのかな。時差があるので難しい。おそらくそれは、君が生まれたあの日も同じ。

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2005年11月22日 23:58に投稿されたエントリーのページです。

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