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levinasienne sans le savoir

5月17日(火)

夕方、講義が終わった途端、極度の腹痛に襲われる。
歩くのもままならないほどであった。身体には気持ちの悪い汗を感じ、残りの力を振り絞って、なんとか挨拶をする。
予定していたことを急遽変更キャンセルし、うちに帰って横になる。
いまは薬を飲んですこし落ち着いた。
なんなんだ?また急な胃炎か?ほぼ一年ぶりの。


5月16日(月)
 
最近では、上野樹里がたいへんいいのである。
つくづく『てるてる家族』を見ていなかったことが悔やまれる。


5月15日(日)

本当のことを言おう。
ときどき実家に帰るまえに、母は事前に電話をよこす。
大概はなんでもない話になるが、ふとした拍子に、「なんでもええから、帰ってきたときに食べたいものを言っておいて」と尋ねてくる。そんなとき、わたしは、普段は食べにくくって、つくりにくいものといった、それなりに知恵を使ったものをリクエストする。このところは「粉もん」である。たこ焼きくらいなら食べることもあるが、それも極々たまのことであるので、粉もん遭遇率は低い関西人だ。

ということで、最近は「何が食べたいか」と聞かれると、ついつい「お好み焼き」と言ってしまう。とりたてて好物だったというわけでも、母の得意料理というわけでもない。だが、発作的にソース味が恋しくなることがあるのだ。粉もんを口にしたくなるのである。
しかしそのリクエストというのが曲者で、いや名ばかりで、じつはこれまで一度たりとも決行されたことはないのである。

「えー、お好み焼き?あんた、いつもそう言うやん。一回、『のぶちゃん』のお好み焼き、食べてごらんよ。あれほどおいしいのはないに。行ったこと、ある?え、ないの?かわいそうに。え?あった?あ、そうかそうか。あ、でも、あした休みやな。あかんわ、行かれんわ。かわいそ。だって、ほんま、あそこの食べたら、うちでなんかつくる気にならんよ」というのが、各地の方言も含めたこのところの母の言い分である。

『のぶちゃん』というのは、実家の近所(でもないが)、わりと近くのお好み焼き屋のことである。
いつだったか、わたしが知人に連れて行ってもらったことがある。これが結構うまいのだ。ああいう簡単にできるものだからこそ、「うまい」と「まずい」の差が一目瞭然ならぬ一味瞭然、じつにはっきりするのだと思う。
「これこれ、こういう店がある」と聞いた母は、食べに行き、たいそうおいしいと言って戻ってきた。以後、どうもお好み焼きは、表で食べるものと思ったらしい。といった以後の詳しいいきさつをよく知らないまま、今に至るので、わたしのリクエストは、結局幻のままなのである。とはいえ、結構うまいので、母の言っている話の意味も汲み取れる。

じゃあ、リクエストを変えればいいじゃないかというのが、よくある話しの流れになる。だが、人間の記憶とはじつに曖昧なもので、尋ねる方も、尋ねられる方も、いちいち覚えてらんないことがあるのである。何を聞いたか、何を応えたかの細かいことなんて。
そうして、結果的には、いつもしつこく同じことを繰り返してしまう。

「何が食べたい?」
「うーん、じゃあ、お好み焼き!」
「えーお好み焼き?あんた、いつもそう言うやん。一回、『のぶちゃん』のお好み焼き・・・」(以下同文)

というふうに。これではまるで、カバ夫とさぶ(@『パーマン』)の会話である。

「カバ夫くん、お父さんの入れ歯見つかった?」
「ううん、まだ」

彼らのかわす最初の会話がこれだ。
大抵ストーリーとは何の関係もないもので、たんなる掴み的なものである。本題に入る前の枕みたいなものか。
彼らは次のコマで、「きょう学校でみつ夫がさあ・・・」とドジなみつ夫の事件をおもしろおかしく思い出したり、「あ、みっちゃんだ!」と言って手を振ったり、「あいつ、またなにか自慢してやがる」といって三重くんの鼻持ちならない行動にケチをつける。かと思えば、「いいなあ、空が飛べて!」とパーマンをうらやましがることだってあるのだ。

話が横道に逸れた。
とにかく、日に日に粉もんへの憧れは増してゆく。先日も、相変わらずリクエストが却下されたばかりでもある。かといって次のリクエストも却下された。却下されたあとの会話は以下のとおり。

「(お好み焼きの)ほかには、何がいい?お寿司は?」
「じゃあ、お寿司」
「うん、わかった。そうするわ」

実際に食卓に並んだのは、「お寿司」はなく、魚料理いろいろであった。
そうなることはわかってはいたが、まるで期待していなかった。よく言えば、ある意味、寿司にはならない期待は当たったことになるだろうか。
このように、あれこれと考えをめぐらせ、あちこちに驚きと変化を加え、まるでひとところに落ち着くことが嫌であるかのように振舞う母なのである。前言撤回派なのだ。たぶん。おそらく本人は、それとは気づかぬうちに。

ところで、そん筋(街的情報系のみなさま、先日はありがとうございます!)の方に伺ったところによれば、神戸には「世界一」おいしいとされるお好み焼き屋があるらしい。話を聴くだけでも、とにかくうまそうである。

近いうちに行ってみよう。


5月14日(土)

とても映画が見たくなり、『真夜中の弥次さん、喜多さん』を観に行った。
官藤官九郎の頭の中は、すごくたくさんの「ごちゃごちゃしたもの」で、いっぱいなんだと思った。でも、それは、詰まってるんじゃなくて、試してみたいこと、好奇心、やってみたくてもできないことなんかが、次から次へと溢れ出てくる感じで、どちらかといえば流動的。枯れることのない湧き水か噴水みたい。
そんなふうに、あれやこれやのアイデアが満載な反面、世の中をシュールに眺めているよな。なんだかそわそわしていて、いっそがしいひとではあるよな。
この映画を文化庁が支援しているあたりがなんとも。


映画とはまったく関係のない話し。
この世にわたしという人間がいなくなったら、哀しむひとなどいるだろうか。哀しんでなくひとなど、いるのだろうか。
この世に、もしそんな稀有なひとがいたとしても、幸か不幸か、わたしは決してそれを知ることができない。だって、そのとき、わたしはこの世にいないのだから。
そんなことが急に頭を過ぎり、過ぎると同時に場所もわきまえず、涙が出てしまった。
なぜ、そんなことを思うのかはわからない。ただ、なんとなく。そうなってしまったんんだ。なんとなく。泣ける日だってあるんだな。


5月13日(金)
本日は、不定期開催の通称ゴルゴンゾーラの会。淀屋橋は、「マーブル トレ」にて実食。

「ゴルゴンゾーラ」の名称にふさわしく、私たちはメニューに必ずゴルゴンゾーラの何か(固形ではなくパスタ)を含める。メニューにあればそれを、なければ、メニューにはないのかを尋ねてみる。そうして、食べてみたいという願いを伝える。それはかなったり、かなわなかったり、かなっても、かなっただけで、それ以上でもなんでもなく、ただそれだけだったり。

本日のパスタは、ほうれん草を練りこんだ手打ち麺。そこへの味がゴルゴンゾーラ。
これはメニューにないものだが、客の要望に応えてくれたよう。たいへんにおいしい。ほんとうにおいしい。じつにありがたいことである。ぜひ行ってみてください。
淀屋橋から徒歩8分。本町でもOK。

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2005年5月18日 09:56に投稿されたエントリーのページです。

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