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ダンキンドーナツが好きなのは「僕」だよ

2月17日(木)
手塚治虫記念館に行くと忘れていたことを思い出した。

2月16日(水)
ソニーハンディカムのCMソングになっている大瀧詠一の歌を聞くたび、なんだかとてつもなく懐かしい気分になるのはなぜだろう。
それにしてもピンチ!な腹。(なので、きょうはこれでおしまい。)

2月15日(火)
ドーナツそれもオールドファッションを食べながらコーヒーを飲んでいると、村上春樹の、佐々木マキの描く羊男な気分になる。それは頭のなかのどこかで、「羊男はたしかドーナツ好きだったよな」ということを思い出すからである。
しかし書いてみて気がついたが、ドーナツ好きだったのかどうか、ほんとうのところは定かでないし、確かめたわけじゃないのでよく知らない話ではあるよな、これ。
「じゃあ調べろよ」ということになるのだが、どうも出先なので、すぐさまそういうことができない。状況が悪いね、きょうは。(寄せ集めた僅かな記憶では、羊男は人のようで人でなく、羊のようで羊でないようなマンガチックな姿に全身を委ねていたように思う。以来、彼がどれだけクールなことばを紡ぎだそうと格好いいスタイルで登場しようと、すました表情をみせようと、いっぺんに三枚目のところにもっていかれてしまわれたのである)。

ところで、おいしいドーナツとコーヒーを出す店というのは、そうやすやすとは見つからないものである。かつての日本には、ダンキンドーナツ(だったかしら?)というふうな名前の店があって、かの村上氏も「あそこのはおいしかった」と言っていた気がする(この記憶も曖昧だ)。そういうような名前の店は、いくらか前に日本から全面的に撤去したと友人Tも同じことを言っていたのを思い出す。

いまじゃ幻のドーナツ屋さんの店いっぱいに広がる香しいドーナツの甘さは、上品そうな笑顔で訓練された店員からそっと差し出されるのだろうか。そんなことならちょっとくらいは想像できても、お味ばかりは遠い夢。

2月14日(月)
ケミストリーもいいけれど、マツケンサンバもいいけれど、目の前にある軟骨から揚げのほうが、どこか大事に見えることがある。

2月13日(日)
言われてすぐに気づくのと言われるまでわからないのは、どっちが罪だろう。

うちのちょいっと近所に「瀬戸内科医院」というのがある。
そこの看板を見るが早いか、次の瞬間には「瀬戸内海院」と文字変換してしまっている。別に深い意味はない。ついついそうなってしまうのだ。
そういえば昔「瀬戸内海」(せとうち・かい)という名の役者がいたっけ。
宝塚ばりのメークで颯爽と舞台に登場し、肩で風を切るようにして歩いていた。あっと言わせる歌唱力と演技力で場内を圧倒させたものである。あの人はいま、どうしているのだろう。また見てみたいなあ。

昼に天丼を食べていたら無性に涙が出てきた。
とりたてておいしい天丼を食べていたわけでも、一緒に食べていたうどんにかけた七味が辛かったわけでも、熱すぎて目がなみだ目になったわけでもない。風邪のために鼻がゆるくなるのならまだしも、眼がゆるむ予定はどこにもない。今わの際に何を食べるかという話をときどきすることがあるが、わたしにとってのそれが天丼というわけでもない。何がいいのかは結局決められていないはずだったと思う。たぶん。

そういや好きなものには、今思い出せるのには、マグロ、いちご、うなぎ、うどん、しゃけの塩焼き、魚全般があるけれど、果たしてそれらのうちのどれを、あるいはすべてを、最期のときに食べたいと思うのだろう。それともまた別のものを。
当然自らが作る気にはなれないだろうから、誰かに作ってもらうかなにかしたとしても、そんなときってどういう感触の食欲が起きるのだろうか。
いまなら、おいしいものをたらふく食べたとき、「ああ、これなら、いま殺されても成仏できる」と思える瞬間があるけれど、もしそれに近い感触だったらいいな。でも、やっぱりわからない。そのときがきたことがないから。
だから逆にいくらも想像できて、いくらも飽きることがないのかもしれない。

まったく関係のない話を思い出した。
「このまま死んだらどうなるだろう」という問いを幼い頃のわたしも持ち続けていたものだ。
幼い頃はずっと、こっちの日本時間で寝ているうちに身体の中の魂は地球の裏側のどこかで、とにかく起きているひとの中で働いているのだと思っていた。そしてまたそのひとが眠りに着くと戻ってくるのだと思っていた。魂が絶え間なく見えない空間を瞬時に移動しているとばかり思っていた。だから、あるとき、そのまま魂が帰って来なければ、目覚めることなく終わるんだろうな、と思っていた。

「どうなるだろう」については、身体の中の魂がどうなるのだろう?といった疑問のほかに別の思いもある。
「どうなるだろう」の別の思いは、わたしの葬式には誰が来るんだろうというものである。これは20歳の頃から絶え間なく続いていることだ。
折に触れ、自らのヴァーチャルな式を思い浮かべては想像している。
別に誰に来て欲しいとか来て欲しくないとか、なんであの人は来てくれないのよ、というわけではない。(多少はある)。
でも、それはいまのわたしの欲である。
実際そのときが来てみなければわからない。
わたしがわたしの最期を思い浮かべているとき、わたしはその場にいないということだけしかわからないので、どうなるのかも想像したってきりがないし疲れるだけだ。
ま、なんでもいいや。
気が狂う前に考えるのをやめておこう。

2月12日(土)
ジョンへ。
最近どうしてる?
近ごろ音沙汰がないから、どうしてるのかなと思ってね。
ちょっと便りを出してみた。

便りがないのがよい便り、なんて事を聞くけど、やっぱり便りは、ないよりもあったほうが断然いい。うれしいよ。
何してるんかなーと、何にもないところからあれこれ考えるのも楽しいけれど、何をしているのかちょっとくらいはわかったうえで、想像する方がより楽しいから。

寒いのか暑いのか、元気なのか病気なのか、それくらいでもわかったらうれしいのにな。
忙しく過ごしてるんかな。暇にしてるんかな。仕事は順調なんだろうか。ああ、風邪ひいてないかな。寒くしてないかなあ。

ねえ、ジョン、忘れないでねとは言わないよ。
でも、覚えていてくれたらうれしいな。
そしてまた、わんわんってないておくれよ。わんわんってさ。

2月11日(金)休日の訪問者
建国記念日とやらで今日はお休み。
紀元節と言われた時期もあるらしいが、当方あんまり関係のなさそうな話しである。
戦後、祝日として復活した歴史を受けての2005年のきょうは、世間の多くで三連休。連休であることのほうが意味を持つありがたい時代だ。

空はようやく暖かな日差しを向けている。
先日の立春などはもう遠い昔のことのようだ。
いったいいつになったら春がやってくるのだろうか。ああ寒い寒い。

風邪がいまいち治りきらないので(そりゃそうだろうとは周囲に鳴り響く声・・・)、きょうはいちにちごろごろすることに決める。

そうと決めたらまずは、溜まっている本の山から片付けて読んでいく。(全然休んでないじゃないかあ!)
ともあれ借りている本、借りっぱなしの本、読みたかったもの、買ってそのままの本、随分前からの積読書の数々のうち、いくらかをぱらぱらと、またいくらかをざらざらとめくる。
落語とポール・アンカとビートルズといった脈絡もない音楽をそっと後ろに流しているうち、風邪薬が効いてきたのか、眠くなってくる。
ご飯を食べると、さらに神経を刺激させるのか、猛烈な睡魔が襲ってきて、ふいにうとうととまどろんでしまう。
まどろんでしまうだけならまだしも、こんどは、ぐーぐー寝てしまう。
いつしか昼寝か朝寝かよくわからないほどの時間の記憶を失って、眼が覚める。
眼が覚めるのはいいが、これがまた興ざめなのだ。
それは、こういうときのショックというのがとてつもなく大きいからである。なんか時間をどっさり捨てたような気になるからである。
これならまだ、意味なく、ぼーっとして過ごしているほうが断然いい。
意味がよくわからない時間があっという間に経過することほど身体に悪く、休んだ気にもなれないものはない。背後から不意打ちを喰らってばっさり斬られた気分だ。
「たしかに記憶を失った」といった時間の経ち方に、なんともいえない寂しさを覚えるのはこんなときだ。ああ、せめて、食よりも薬のせいだと思いたい。

ちゃんと休んで風邪を治しなよ、と心の声。
だのに、ちゃんと休めないってのは、どういう仕掛けかよ、とはまた別の心の声。
やっぱりちゃんとぼーっとしてないってことかなのかしら、とはまたまた別の心の声。
甘ったれたことを言うな、とはまたまたまた別の心の声。

さてね。
キミは、いったい何人いるんだ?とはまた誰の声?

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2005年2月18日 09:31に投稿されたエントリーのページです。

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