2月5日(土)
合気道の稽古に行くと、きょうはガンガン飛び跳ねた。
正面打ちをしたのだけれど、できないところばっかりで、ガンガン飛ぶより、ガンガン身体を使ってみた。だって、考えても始まらないもんねー。
飛ぶのは、とても気持ちよかー。地が天に、空が宇宙に舞い踊る。はいほー。
受身ってのは、とてもいい。受けさせてもらえるのは、もっといい。稽古ハーイ。
やっぱり「三度のメシより受身が好きだ」。
これを大声で言っても恥ずかしくないよう、ちゃんと稽古をしなくちゃね。
しかし世界中の誰が今日のわたしを様子を見てさ、風邪だなんて思うだろーか。
きっと誰も思わないだろうなー。
あ、来週は誕生日だ。それまでにはきちんと治そう。そう、来週は誕生日。年に一度の。
2月4日(金)
ひいいいくしょん。ずるずるずるずる。
じゅるうううるう、うううるるる。ずずずずうー。
鼻がずるずるするんです。いえ、じゅるじゅるしてるんです。
どうやらまた風邪をひいたみたいです。
風邪をひいていつも思うのは(って、そんなにはひかないはずだと自分では思っているのですが)、人間の身体は、普段から地面に立っているだけでも相当なエネルギーを使って生き延びているのに、加えて「鼻水を生産する」(なんだかきたない表現だなあ)ということもやってのけるエネルギーをさらに作っているのはすごいなあってことです。
素人考えでは、薬や栄養補給などの作用によって、身体がとりあえず快方に向かおうというエネルギーが働くと予測されます。さらに同時に、突如発生する鼻水生産力とでもいいましょうか、それに使われるエネルギーも発生すると予測されます。しかしこれらエネルギーは決して交わるものではなく、並行にあるものだと思われます。
どう考えても、平常より病気のときのほうが鼻水生産量が多いような感触があります。
身体を活性化させるためと風邪の症状からと、とにかく双方向からエネルギーを発生させるなど、すばらしいことであります。
鼻水万歳!とは言いませんが、なんとか快方に向かいたいものです。
身体は大切にしたいものです。
2月3日(木)
節分なので太巻きを食べた。
どちらが恵方というものなのか、よく知らないし、二十数年前から突発的に寿司産業界か何かが発生させた噂に乗るようなほうでもないので、とりあえずがぶりと方角も何も考えずに噛んだ。
噛んだら、かんぴょうがだらりと飛び出てきた。
かんぴょうって、こんな時にしか食べないけれど、ないと困る不思議な存在だ。味がどうとかいうものではなく、特別おいしいものでもないけれど、ないとないで哀しくなる。 滅多に食べないハンバーガーのピクルスよりは断然好きだけど。
2月2日(水)
「あー記憶にない」と時々思うことがある。
きょうもそうだった。
数日前、久しぶりの友人から、「韓国料理を食べに行かない?」との声がかかった。それも「昔一緒に行ったお店で」というフレーズが含まれていた。
<昔一緒に行ったお店>には、まったく覚えがなかった。
記憶力に自信があるわけではないし、過信するわけではないが、誰かと何かを食べたことくらいは、なんとか覚えている。でも、ときどきある。精神的なことか、何かの別の事情が災いして、事実を記憶することを妨げるのだ。
そもそも、そのひとと一緒に行ったのだろうか?わたしは、やっぱり、ほんとうに、まったく記憶になかった。
それでも韓国料理はジャストフィットで、お誘いのあったとき、急に食べたくなっていたので(こういう系の「念じる」はすぐに伝わるね)、それ自体は「何て素敵なお誘いなんだろう!」と思い、二つ返事で引き受けた。
でも、そこまで思ってみても、やっぱり何も思い出せなかった。
その日が来て、指定された待ち合わせ場所で会い、日も暮れた街を一緒に歩いた。
それでもまだ何も思い出せない。だから、歩いているうちは、まずは、そのときのことじゃない話題で持たせるしかない。こういうときのわたしの口のなんて流暢なこと!
歩くこと数分、かの店に着いた。
わたしにはまだわからない。
席に通されて、視界が一面明るくなった。
店内の様子が少しずつ視覚的に捉えられる。
「ああ、これは!」
ようやく思い出した。たしかに来たことがあるお店だった。
それでもそこまでだった。そのときのわたしたちが何を話したのかまでは、やっぱり思い出せなかった。
煮詰まった話しでもしていたのだろうか。お互いの不利益になることでも言ったのだろうか。
でも、理由なんてどうでもいい。
ただ、いま、隣に据わっているときにおいしくモノが食べられる相手ならそれでいいじゃないか、そんなふうに思った。
2月1日(火)
2月。昼の吹雪。荒れ狂う空。
まっすぐには歩けない。
なるほど。そういうことですか。
1月31日(月)
内野聖陽は、かなりやらしいひとだ。(→ほっとけよって?)
1月30日(日)
朝起きると日曜だった。明日は月曜なんだろうな、きっと。
1月29日(土)
「存在をいきなり否定するよりもむしろ存在を一度受け入れてから否定する方が、物事の運びはよいのだ」と友人Aは言った。
それには、「しかしこれには、たとえばひとつの存在があったとして、それを受け入れる段階までに思考が及ばないことがある」と補足された。