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エルビスと野口英世

11月8日(月)
 ちょっと腕が痛い。

11月7日(日)
 節度、程度、限度。どれが一番大事なのかと思う。

11月6日(土)
 いつもより早く起き、掃除、洗濯、布団干し。部屋の片付けは無限大。
 
がんがんかけるプレスリー。がんがんはかどる掃除機隊。
くねくね踊るわけではないが、調子に乗ってどこまでも。ついでに床まで拭いてみる。

「そうだ、ご飯だ」と思い立ち、今度は飯を炊いてみる。
そして気づいた朝食は、まだだったのさ、チョーショック。
あわわわわあと、そそくさ食べて、さらなる音楽、今度は静かに。しばし休憩。

かかる電話で気づく時間。
「おおおー!あわわわわあ」とすこし慌てて仕度する。
よっこら荷物を携えたならば、自転車サドルにまたがって、ペダルこぎこぎ大学へ。

土曜の午後は合気道。
三度のメシより受身が好きで、そんな自分を改めて、思い返して周りを見れば、
よき師、よきひと、よき場に恵まれ、心地よい秋の日差しがまぶしくて。
きょうはいい日になりそうだなあと、思った頃にはお稽古終了。

稽古が終われば、さささと戻り、荷物を置いてお買い物。

 そうそう、きょうは、おいちゃんの、年に1度のバースディ。
何度目だったか、バースディ。おめでとうだよ、バースディ。

 愉快なことはよきことで、やはりきょうはいい日です。

11月5日(金)
 漱石が好きなのにな。

そんなことを今更言っても仕方ないのかもしれないが、
いましか言えないことなので、いまここで、言っておこう思う。

漱石が好きなのにな。

改めてこんなことをいう気になったのは、漱石が、漱石の作品が好きだから、
ということに、いま改めてきづいたからである。単純な理由だ。
それに気づいたのは、「漱石が好きな」ことに改めて感じたのは、
漱石ではない誰かが嫌いであることに気づいたことによる。

いや、実際はずっと前から、そう幼かったあの頃から、ずっとずっと嫌いだったのだ。
それをとくにこれまで、声に出して言うことなく過ごしてきたのが、いまここにきて、
どこかで急にスイッチが入ったみたいに、勢いづいて口から出てきてしまったのだ。
まるで映画を観に行ったはずなのに、気がつけば居酒屋のカウンターで関係のない話を
喋り捲っているみたいに。

言いそびれたままになっていた嫌いな誰かは細菌学者の野口英世。

別に何か直接の被害をこうむったわけでも、間接的に邪魔されたわけでもないが、
わたしはどうも幼い頃から野口英世が嫌いであった。理由はわりといろいろあって、
いろいろな話がある。まあ簡単に言えば生き様が好きではない。顔が好きではない。
しかし、わたしの趣味思考や好感などとはまったく関係のなく、今月はじめ、
彼は日本銀行が発行する千円札紙幣の顔になってしまった。

これは厄介である。

なぜ厄介なのか。嫌いなものと、身近に接することになるからである。

「じゃあ千円札を持たなければいいじゃないの?」と、言われるかもしれない。

それは正論であるだろう。事実だけ優先すれば、そういうことになるだろう。

しかしそれは難儀ですぞ。

持たないように過ごそうとしても、思うに現実的には、
そういつも「懐には福沢諭吉や樋口一葉ばかり」というわけにはいかない。

また、たとえそのような状況があり、許される場合があったとしても、
壱万円や五千円札を使えばお釣りになるのは、おそらく千円札だと予測される。

ならば、と手元に届いた千円札を、毎度じゃらじゃらと、五百円玉や百円玉の硬貨に
両替でもすればいいではないか、ということになるかもしれない。だが、そんな気力は
端からまったくなし。頼まれても、しやしないでしょう。そんなことをしていたら、
財布ばかりが重くなるし。

さて、現実の日が来て新札になった野口英世の顔が手元に届く。

「あーあ、こんなお札に変えちゃうなんて、政府もひでーよ」などと、
つまらぬ駄洒落のひとつでも言わせてちょーだい。

すこしばかりの救いがあるなら、初めてそれを見た日、わたしはそれらが、
当然だが新札のそれらが、すこし紙の質が変わったように感じたことに喜んだ。
 しかし同時にそれが見るからに「おもちゃの紙幣」に映ったことに、
いくらかの哀しみを覚えたことも付け加えておこう。

やっぱり漱石が好きなのにな。

 あの顔がよかったのにな。
いっそのこと、全部の紙幣を文学者にすればよかったのにな、と、そんなことを思う。

午後は授業サボって河合隼雄を聴きに行く。

11月4日(木)
 がんばんなさい。

11月3日(水)
 京都は二条城の市民茶会にて、一席をいただく。
茶会は久々の感覚。と言っても今回は、籔之麹流とかいわれる初めて見せていただく流派なので、裏千家しか経験のないわたしにとっては、見ながらに、ところどころ所作の違うところがあるくらいしかわからない。でも、共通するようでさまざまな動きがあり、おもしろかった。同じく、野立てでも一席をいただき、終われば天心をもぐもぐ、ずるずる。

その後、秋のうららかな心地よい日差しを受けた二条城の庭を歩き、鶯の床をばりばり踏んで、城を拝見し、そこをあとにする。

そのまま、新京極にて好物のうなぎを食するが早いか、京の街をぶらぶらと歩く。
やはり何度も思うことなのだが、京都というのは、ワンブロックとワンブロックの間の距離がとてもとても長く感じる街並みばかりである。

日もどっぷりと暮れて、夜の平安神宮で夜間拝観のため、初めての場に足を踏み入れる。
おみくじをひいた。吉。きち。キチ。まあまあよい感じである。

さらに高台寺を夜間拝観。水辺に移る寺や木々がライトアップされた光に照らされ、なんとも言えず美しい。夜しか来たことがない、例によって京都初心者であるが、とてもきれいだった。昼はどんな景色が見えるだろうか。いまは紅葉する前のもみじの頃だが、赤になれば、きっとさらにたくさんの人が来るのだろうなあ。

そのままてくてくと歩き、円山公園を拝観。周辺を歩いて歩いて歩いて歩いていると、「御陵衛士屯所跡」の碑の前に辿り着いていた。いや偶然なんだが、月真院の前(東山区下河原町)にいたことになる。昨日『新選組!』で観たばかりの場所だったので、ついついよくわからぬ興奮をしてしまう。「ああ、甲子太郎や…無念。ナムナム…」。

さらに歩いていると、橋爪功らしき人物が『迷宮~』とかいう番組の撮影で京都にいた。
同行のひとたちは、よく見えなかったらしいが、わたしは、たしかに橋爪さんの横顔をこの目でしかと見たのである。

またさらに歩いて、メインストリートに出る。みたらしだんごを食べる。
じつは並ぶのは、修業と思う以外にまったく好きなことではなく、みたらしだんごも同様、できれば食べたくないものなのだが、これは別格であった。並んでもよし、食べてよし。じつにうまい。ほんとに。

そして、今度は木屋町通りへ。歩いていると、「本間精一郎遭難之地」の碑石を見た。現在では、その横に占い師が構えている。(なぜだ?)しかも時間ごとに、占い師が変わっているから不思議だ。

本間精一郎というのがどういう誰だったか、たしかな記憶がなかった。(気になって、うちに帰って調べてみると、「京都木屋町で土佐藩士武市半平太の謀計により、岡田以蔵等の兇刃に斃れた」人物だった。「文久二年(一八六二)精一郎二十九歳、初秋の秋の夜のできごと」らしい。志した高くして亡くなったのだろうか)。
木屋町では、「成仏してください」と手だけ合わせてはみたが、考えてみれば、京都の街にはそういうひとたちの魂が、たくさんおよいでいそうである。いつぞやの『新選組!』(ばかりを挙げて申し訳ないが)にも、出ていた気がする。時代の波はいつだって、よきことと思い、正しく進む人たちの思いばかりが正しく働くとは限らない。

ところで、京都市役所の道路をはさんで向かいにある京都ホテルオークラの前に建てられた桂小五郎の銅像は、いったいぜんたいなぜにあんなところにあるのだろうか。

京都とはその場にいながら、時間だけ、瞬時に違うところに運んでくれる空間を持つ不思議な場所がたくさんある。さらに謎はふかまるばかり。さらに興味は増すばかり。

11月2日(火)

都に雨の降るごとく
わが心にも涙ふる。
心の底ににじみいる
この侘しさは何ならむ。

大地に屋根に降りしきる
雨のひびきのしめやかさ。
うらさびわたる心には
おお 雨の音 雨の歌。

かなしみうれふるこの心
いはれもなくて涙ふる。
うらみの思あらばこそ。
ゆゑだもあらぬこのなげき。

戀も憎もあらずして
いかなるゆゑにわが心
かくも惱むか知らぬこそ
惱みのうちのなやみなれ。

「都の雨の降るごとく」ポール・ヴェルレエヌ

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2004年11月 9日 10:55に投稿されたエントリーのページです。

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