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眼鏡をはずしたペ・ヨンジュンの顔は、だんだんホリケンに見えてくる

7月6日(火)
 まだ梅雨が空けていないのが不思議なくらいだ。

7月5日(月)
 世の中のどれくらいのひとが占いというものを信じ、それを生きる糧にしたり、日々の指針にしたりしなかったり、気にしたりしなかったりしているのか、そんなことはちっとも知らないけれど、巷には「占い」と名のつくものが溢れかえって久しい。テレビから雑誌、ちょっとしたパンフレットやミニコミ誌、それだけを集めた本やサイトまである。街のどこかには占い師がぞろぞろ。

 まあ、全部を見ているわけではないので、実際はどのくらいの数があるのかわからないけれど、たとえばテレビである。これは朝から晩までずっと見ているわけではないが、やたらと占いの数が多い。テーマとなるのは星座や血液型なんかで、朝も昼も夜もやっている。そんなに占ってばかりいてどうするというのだ。(しかし、つい最近ですか。血液型が性格を決定付けるというような理論が展開され、発表されたんでしたっけ?まあ、なんですな。ヒトの血の種類ですから、流れる質の違いによって性格も変化するというのは、すこしはわかる気もします)。

 しかし占い、それだけじゃあ、日々も人間も決められないのではなかろうか。と思うし、太陽が昇って日が沈み、月が見えて、ご飯が食べられ、夜露をしのぐ心配もせず、屋根のあるところで眠り、湯の出る蛇口があれば、何も占わなくたって、それで充分じゃないか、とも思う。

 と言いつつも、きょうは「めざましテレビ」のなかで放映されている占いを見た。朝の6時55分くらいからやっているアレである。この占いは12星座がランキングされ、それぞれに今日のコメントが寄せられている。1位と12位の星座には、ほかのランクに比べて、いくつかアドバイス項目が添えられている。「今日は1位だから、がんばって。気合を入れて」と言う意味と「今日は最下位だけど落ち込まず気を取り直して」という親切心が込められているんだろう。

偶然見た今日は1位だったので、ついつい喜んでしまった。なぜ喜ぶのかといえば、ここの占いは、過去によい印象や感触があるからである。結局こうやって信じてしまうものである。なんだってそういうものだ。過去のよい印象やいい感じ、心地よい感触というものを記憶しているから、また次が見たかったり、会いたかったり、行きたくなったり、食べたくなったりするんだろう。

さてと、ついでに言えば、いつも占いを読んでいる司会の高島彩アナウンサーも、きょうはワタクシと同じく1位だったようなので、いつになく喜んでいた。隣で話していたてんびん座の大塚さんは2位だったらしい。でもなぜか喜んでいた。今日の大塚さんは、機嫌がよさそうである。

7月4日(日)
 その昔、『7月4日に生まれて』とかいうトム・クルーズ主演の映画があった。もう随分と前のことだと思う。初めて観たとき感じたのは、アメリカ社会における「7月4日」という日時の重大さよりも、彼の若さのほうだったから。
それにしても、彼ほどさまざまな役をこなし、さまざまな芸能情報を提供し、日本人にもよく知られ、来日も多く、当たり役も多い役者もハリウッドにもそうたくさんはいないだろうなあと思う。(『ラスト・サムライ』なんて、多方面に話題が広がりましたね)。まあ、もちろん、なかにはヒットどころか大きく外れた映画もあるんだろうけど。(『バニラスカイ』なんてのは、どうだったんでしょうか。なんともいただけませんでしたねえ)。
それにしても7月4日に生まれると蟹座になるんですね。ワタシは蟹座のひとって、結構好きです。

7月3日(土)
 すごく暑い。もう夏だ。

7月2日(金)
 それがどういういきさつだったのか今ではもう忘れてしまったが、わたしは一時期、とある小説をじっと食い入るように読んでいたことがある。「佐和子」とかいうそれを、わたしは読んでいたことがある。

 毎晩毎晩気がつけば眺めてばかりいた。まるでちびちびと晩酌でもするかのように、あるいは布団に入る前の就眠儀式のように。

綴られる文字を眺めながら過ごすうち、あるとき、それらをつなぎ合わせてみようかと思い始めた。そうすることで、それまで以上に眺めやすくしようと考えたのである。といっても実際の作業は簡単なもの。コピー&ペーストで自身の好きに並べただけだ。

 ところが、「好き勝手に構成する」とはいえ、読みやすさや見易さ、段落やら余白やら何やらを考えると、さまざまに思いをめぐらせてしまうはめになった。別に誰が見るわけでもなく、何でもないただの趣味だ。だのに、そうなってしまった。

綴り集めているうち、連載が連載でなくなった。突然に連載がストップしてしまったのである。

幸か不幸か、ちょうどその頃のわたしの頭もまた熱心に追いかけていた頃から、すこし遠ざかっていた。あるいは、ちょうど遠のくときだったのかもしれない。

すると、たちまち小説の題名が「佐和子」だったのか「佐知子」だったのか定かでなくなってしまった。冒頭の題名すら間違っているかもしれない。

わたしらしいと言えば、わたしらしい忘れ方だ。興味が薄れると急に記憶が消えてしまうのだから。

しかしもし「忘れる」というのが「覚える」という過程あっての行為ならば、あるいは「覚える」→「忘れる」の流れで思考され、記憶するものならば、このような前段階すら消えてしまったのだろうと思う。「記憶が消えてしまう」とは、覚えていた頭や身体の記憶すらどこにあったのか「定かでない」ということである。「忘れる」ための記憶すらすっぽり「消えて」「失って」しまっている。最初から身体のどこにも、そんなコードやツールや場所や感覚などが存在しないまっさらな状態だけがあるのだ。そんなふうなものだと思う。記憶の消え方というのは。

それにしても、いったいあの衝動は、出来事はナンだったんだろうか。

しばらくのときが過ぎ、例の小説を書いた作者に出会うチャンスがあった。作者を見て思ったことは、「モテる男は辛いだろうなあ」という小説とはいっさい何の関係もないことだった。

7月1日(木)
 今日はいい日だ。とてもうれしい日だ。だから祝杯を挙げた。
初めてこの場所で、ひとりで挙げた。さらにうれしくなった。ほんとにうれしくなった。
うれしさは、私自身が生きていることが肯定された気がした何度目かのときでもあったでも、この「うれしい」ってことを書き出すと単なる自慢か嫌味にしか聞こえないし、きりがないから、書かない。会った人には直接話そう。とにかくビールはうまいんだ。

6月30日(水)
 さあ、よ~く見てください。

眼鏡をはずしたペ・ヨンジュンの顔は、だんだんホリケンに見えてくる~!!!

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2004年7月 7日 11:20に投稿されたエントリーのページです。

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