スーさん、マーラーを聴く

11月1日(木)

先週の土曜日は、インバル・都響によるマーラーの交響曲第3番を聴くため、横浜のみなとみらいホールへ。
9月の2番に続いての3番である。以前の日記(http://nagaya.tatsuru.com/susan/2012/08/05_1737.html)にも書いたように、自分はマーラーの全交響曲中、この3番が最も好きである。
いちばんの理由は、とにかくいろんな音色が聴けることである。ポストホルンのソロあり、アルトのソロあり、女声合唱や児童合唱ありで、まさに「ダイバーシティ・シンフォニー」なのである。

今回も、第3楽章のポストホルンは、思わず息を止めて聴き入ってしまうようなすばらしい演奏であった。舞台裏での演奏ということで、どちらかと言うと舞台上のホルンとの掛け合いでは音が小さくなって聞こえない場合もあるのだが、今回はたぶんインバルの指示によるのであろう、かなり大きな音量でソロを吹いてくれたため、件のホルンとの掛け合いが絶妙であった。

さらには終楽章!都響の弦楽器群は、奏者一人一人が思いのこもった演奏でインバルの指揮に応えていた。奏者たちの熱い思いが、そのまま客席にもひしひしと伝わってくるような感動的な演奏であった。

この3番、自分の場合は、レコードだけでなくCDもいろんな指揮者の演奏を購入している。タッチミスなどの瑕疵のない演奏を聴きたいのであれば、CDを聴くに如くはない。
でも、それ以上に、なんとしても実演が聴きたくなってしまうのは何故なのであろう?
人は、実際の演奏に何を聴こうとするのであろうか?

終演後、久しぶりに家族3人(自分、家内、娘)でおでんをいただきながら、そんなことをあれこれ話した。
娘は、「それは演奏者の息づかいを感じたいからじゃない?」と答えた。「だって、演奏って、身体的なものでしょ?」と。
演奏とは、楽譜に記された音符を再現する行為であるが、生身の人間演奏するわけだから、当然そこには演奏者の情感が込められるはずである。それが、オーケストラのように百人近くの人間が揃えば、百様の情感があるはずだ。
その情感は、指揮者というまとめ役によって、一つの方向に導かれる。そして、その方向性は演奏を聴いている聴衆にも当然影響を及ぼす。すなわち、それが演奏者と聴衆が一体となった「感動」になっていくということだ。
尤もな意見と思う。

自分の場合は、今回の演奏を聴きながら、これは一つの「祝祷」であるという印象を受けた。
今夏、神戸市の鏑射寺で体験した護摩行のことを思い出した。
鏑射寺で毎月22日に行われる月例祭では、境内の護摩堂にて中村山主による大護摩供の勤行が開催されている。
法要は、真言密教の作法に則って始まる。山主が、あれこれ法具を使いながら、護摩壇の炎をだんだんと高くしていく。護摩壇には両側に20cmくらいの細く短い柱のようなものが立てられていて、紐状のものが張り渡されてある。山主が法具を使う際、それが顔をそれ以上前に進めないような役割を果たしている。
そうなのだ、そこが結界なのだ。つまり、そこから先の護摩壇は神が宿る場所なのである。
護摩壇を取り囲んだ僧侶や参列者たちは、般若心経や不動明王の真名(サンスクリット語)を唱え、一種のトランス状態を作り出す。自分の目には見えなかったが、たぶんあのときの護摩壇には神と呼ぶべきようなものが降臨していたのであろう。そんな感じがした。

今回のインバル・都響のマーラー3番を聴いていると、舞台の上が結界であるかのように思われてきた。そこが結界であるならば、さしずめ指揮者は神を招来する司祭という役どころであろうか。
舞台上の人間が音曲を奏でることで、そこに神と呼ぶべきようなものが降臨する。それを二千人近くの聴衆が感得する。
その神と呼ぶべきようなものとは、異教の神かもしれない。でも、そんなことは問題ではない。なぜなら、その場に居合わせることで、確実に慰藉を受けることができるからである。
それは、終楽章に及んで、ますますその感を強めた。
すばらしい演奏会であった。

演奏を聴いて感じたことを、もう一つ書いておきたい。
それは、オーケストラにおける第2ヴァイオリンの役割である。今までは、第2ヴァイオリンといえば、第1ヴァイオリンを補佐する役割というような印象しか持っていなかった。
しかし、今回マーラーの3番を聴いていると、弦楽器群の中で第2ヴァイオリンの果たす役割がいかにも素敵なものに思えてきた。
確かに、第1ヴァイオリンの補佐的役割を果たしていることも多い。でも、これはマーラーだけに限ったことではないのだろうが、ちゃんと重要な主旋律を奏することも数多くあるのだ。しかも、伴奏も第2ヴァイオリンが入ることで、一気に盛り上がったり、リズミックになったりするのである。
一見地味な役どころのように思われて、しかしオーケストラの弦楽器パートにおいてはなくてはならない存在。それが第2ヴァイオリンなのである。

これでまたオーケストラの実演を聴く楽しみが増えた。
身体性と、祝祷と、第2ヴァイオリンである。