スーさん、クナッパーツブッシュを語る

10月25日(木)

今日は、ドイツの名指揮者、ハンス・クナッパーツブッシュの命日である。

クナッパーツブッシュについては、Wikipediaに以下のように紹介されている。
“ハンス・クナッパーツブッシュ(Hans Knappertsbusch, 1888年3月12日 - 1965年10月25日)は、ドイツの指揮者。ミュンヘンやウィーンで活躍し、第二次世界大戦後に再開されたバイロイト音楽祭を支えた指揮者でもあった。リヒャルト・ワーグナーやアントン・ブルックナーの演奏で有名だった。
193センチの長身でいかつい顔の指揮者で、ドイツや日本では「クナ」(Kna) の愛称で親しまれた。”

さっそく、家に帰って、ウィーン・フィルを指揮した「ワーグナー名演集」(DECCA)のCDを聴いてみた。
1曲めは、楽劇「神々の黄昏」から「夜明けとジークフリートラインへの旅」。ウィンナ・ホルンによる角笛の動機が、いかにもジークフリートのイメージにぴったりである。これは、かつて何度も何度も聴いた曲だから、懐かしい演奏という感じで聴いていた。
続く第2曲は「ジークフリートの葬送行進曲」。これも有名な曲だ。葬送の歩みを表現するかのような8分音符の連打。でも、この8分音符を聴いて、自分が昔聴いたイメージと違うことに気がついた。

そんな印象は、5曲めに入っていた「トリスタンとイゾルデ」の第1幕への前奏曲を聴いて決定的となった。
ん?クナッパーツブッシュの演奏って、こんなにも表情豊かだっけ?という印象だったのである。
これには少なからず自分でも驚いてしまった。

というのも、クナッパーツブッシュについては、今まで、「豪放磊落」、「細部を気にしない演奏」、「即興性」などという言葉で表されるような印象を持っていたからなのだ。
これは、多分に新聞・雑誌のレコード評や、ジャケットのライナーノーツに影響されてのことであったろう。
実際、そのような印象を持ってレコードを聴いてみると、確かにそんなふうに聴こえるような気がしていたのである。

これは、クナッパーツブッシュの指揮にかかわる以下のようなエピソードにも影響されていたのであろう。
1)クナッパーツブッシュは大変な練習嫌いで通っていたが、たとえ練習なしの本番でも、自分の意のままにオーケストラを操ることができる類稀なる指揮者であった。
2)一度も振り間違いをしなかった、譜面にはまったく眼をやらなかった、という楽員の証言もある程である。
3)第二次世界大戦中の爆撃で破壊され、1955年に再建されたウィーン国立歌劇場の再開記念公演で、リヒャルト・シュトラウスの楽劇『薔薇の騎士』を上演することになった時には、練習場所のアン・デア・ウィーン劇場でメンバーに向かって「あなたがたはこの作品をよく知っています。私もよく知っています。それでは何のために練習しますか」と言って帰ってしまった。
4)練習のはじめに「みんな、こんなことやめてメシでも食いにいこう」と呼びかけたり、オーケストラの要請がありリハーサルをして臨んだ本番でミスが生じたら、「それみろ、練習なんかするからだ!」と怒鳴った。(@Wikipedia)

このようなエピソードを読んでいると、いかにも「豪放磊落」、「細部を気にしない演奏」、「即興性」というようなイメージがいかにもぴったりするように思われてしまうのである。
でも、そんなイメージと、この「トリスタンとイゾルデ」の前奏曲の演奏とは、どうも一致しない。

クナッパーツブッシュが、あまりリハーサルをしなかったことは事実なのかもしれない。特にそれがウィーン・フィルのような超一流のオーケストラだった場合には。
でも、いくら超一流のオーケストラだとしても、指揮者の意図を隅々にまで浸透させようと思えば、ある程度のリハーサルが必要とされるであろう。
クナッパーツブッシュはあまりリハーサルをしなかったとのことだ。であるにもかかわらず、どうしてこの「トリスタンとイゾルデ」前奏曲のような演奏が可能になったか。

もちろん、そういうことを可能にしたからこそ、クナッパーツブッシュが類稀なマエストロであったということを証するのであるが、では、クナッパーツブッシュはいかにしてそのような演奏を可能にしたのか。
それは、特にウィーン・フィルのような超一流の演奏集団が、クナッパーツブッシュをまるで自分たちの「師」であるかのように仰ぎ見ていたからであったろうと想像される。

細部にわたるリハーサルをしないクナッパーツブッシュに対しては、本番の演奏の際して、楽団員たちは「師」と仰ぐクナッパーツブッシュが何を考えて(感じて)いるのだろうということを想像した。そのためには、クナッパーツブッシュの一挙一投足を見逃すまいとした。そうして、クナッパーツブッシュがどんな演奏をしようとしているのかということに自分の感性を同期しようとした。

楽団員との間にこのような関係が出来上がっていると、クナッパーツブッシュは、たとえリハーサルをほとんど行わなかった曲目であれ、演奏会当日にはそれぞれの演奏者に少しのキューを与えるだけで、全体の音量のバランスを取り、メロディーラインを際立たせることが可能になった。
また、高揚する楽想の場面では、指揮棒を少しだけ速くすることでテンポを調整することを可能にしたし、
指揮棒を持たない左手を思い切り高く挙げれば、それに応えるかのようなフルオーケストラの大音響を響き渡らせることができたのである。

もう一度、「トリスタンとイゾルデ」の前奏曲を聴いてみる。
それにしても、主題を演奏する弦楽器群の表情の豊かさはどうであろう!音の一つ一つに微妙なニュアンスが付けられている。そうして、少しずつアッチェレランドがかけられながら、だんだんとクライマックスへと向かうテンポのすばらしさ!

クナッパーツブッシュの演奏は、決して細部ないがしろにした豪快な演奏などではなかった。
むしろ、細部まで指揮者の思いが行き渡った、それでいて即興性を失っていない比類なき演奏だったのである。

残念ながら、現在の指揮者の中には、クナッパーツブッシュに匹敵するような指揮者を上げることができない。
だからこそ、私たちは今でもクナッパーツブッシュの演奏を聴きたくなるのである。
合掌。