スーさん、マーラーを聴く

10月5日(金)

9月最後の日曜日は、インバル・都響によるマーラーの交響曲第2番を聴くため、横浜みなとみらいホールへ。

このコンビによるマーラーの「復活」を聴くのは、これが2回目。前回は、2年前の6月だった。
前回は、何しろ「復活」の実演を聴くのが初めてのことだったため、演奏が始まる前からずいぶん興奮していて、肝心の演奏は細部まではっきりと覚えていないような有様だった。ただ、深い感動が残ったことだけは確かだった。(このときの演奏のことは、2010年6月22日の日記に詳細を書きました。http://nagaya.tatsuru.com/susan/2010/06/22_0920.html)
今回は2回目ということもあってか、気持ちにもゆとりを持って聴くことができた。

エリアフ・インバルが東京都交響楽団のプリンシパル・コンダクターに就任したのは、2008年4月。このときの就任披露公演は、なんとマーラーの交響曲第8番「千人の交響曲」だった!(このときのことも日記に書きました。http://nagaya.tatsuru.com/susan/2008/05/01_1028.html)
以来、「マーラー・ツィクルス」と題して、今年3月の「大地の歌」まで、4年間をかけてマーラーの交響曲の連続演奏会を催してきた。
今回は、「新マーラー・ツィクルス」と銘打ち、同コンビによるマーラー交響曲の二度目の連続演奏を開始したのである。

今年は1番から4番まで。既に、7月には1番が、そして9月が2番、以下10月に3番、11月に4番の公演が予定されている。
さらには、年が明けた来年1月には5番、11月に6番と7番、そうして再来年(2014年)の3月には8番と9番の公演が予定されている。
3年間をかけて、全曲演奏をするのである。

エリアフ・インバルは、イスラエル出身の指揮者である。イスラエルの指揮者ならば、同じユダヤ人であるマーラーの音楽には親近感を覚えるのであろうか、自分の場合は「マーラー指揮者」としての印象が強かった。
これは、インバルがフランクフルト放送響を指揮したマーラーの交響曲全集があるためであろう。
この全集については、フランスの世界的 なマーラー研究家で、『マーラー伝』などを著したド・ラグランジュが、「マーラーが譜面に記載した美や多面性や 醜さまでも、全てを表現している」と絶賛したCD全集である。
確かに、どの交響曲についても、出来不出来のほとんどない高いレベルの演奏を聴くことができる。

そんなインバルが振るマーラー。指揮者については申し分ないのだから、あとはオーケストラの出来次第ということになるのだが、この東京都交響楽団というオーケストラは、どうやら伝統的にマーラーの作品を重要なレパートリーとしているらしく、マーラーの演奏には定評があるとのことだ。
確かに、初めて都響の演奏を聴いたマーラーの8番では、すばらしい演奏を聴かせてくれた。もちろん、これはインバルの指揮によるところが大きいのであろうが、特に管楽器群のレベルの高さにはほんとうに驚かされた。これなら、欧米の一流オーケストラにも引けをとらないのではないかと思ったくらいだ。

そのインバル・都響によるマーラーの「復活」。
全5楽章からなるこのシンフォニーは、マーラーの指示によって、第1楽章が終わったところで「少なくとも5分間以上の休憩を取ること」とスコアに記載されている。たぶん、第1楽章が演奏に25分くらいを要することから、聴衆だけでなく演奏者も休めたり、合唱団や独唱者を入場させたりする時間を確保しようとの意図があったのかもしれない。
ところが、インバルは2年前の「復活」のときもそうであったが、この休憩を取らない。自身が息を整えたあと、すぐに第2楽章に入るのである。
前回と同様、第2楽章が終わったところで、インバルはいったん指揮台を降りて舞台袖へと引引き上げた。今回も、その間に合唱団と独唱者が入場してきた。
第3楽章から終楽章までは、すべてアタッカ(切れ目なしの演奏)である。そういうこともあってか、インバルは第2楽章までを演奏してから、休憩を取るようにしたのかもしれない。

これには、マーラー自身が記した解題が参考になるのかもしれない。
“第1楽章
私の第1交響曲での英雄を墓に横たえ、その生涯を曇りのない鏡で、いわば高められた位置から映すのである。同時に、この楽章は、大きな問題を表明している。すなわち、いかなる目的のために汝は生まれてきたかということである。…この解答を私は終楽章で与える。
第2楽章
過去の回想…英雄の過ぎ去った生涯からの純粋で汚れのない太陽の光線。
第3楽章
前の楽章の物足りないような夢から覚め、再び生活の喧噪のなかに戻ると、人生の絶え間ない流れが恐ろしさをもって君たちに迫ってくることがよくある。それは、ちょうど君たちが外部の暗いところから音楽が聴き取れなくなるような距離で眺めたときの、明るく照らされた舞踏場の踊り手たちが揺れ動くのにも似ている。人生は無感覚で君たちの前に現れ、君たちが嫌悪の叫び声を上げて起きあがることのよくある悪夢にも似ている…。”(@Wikipedia、以下の引用も)
つまり、第1楽章の葬礼で送られた英雄を、第2楽章で回想する。そうして、第3楽章で再び現実に戻る。
だから、第2楽章まででひと区切りとする。インバル自身は、そのことについては何も言及していないため
真意は推し量るしかないが、そんなことも勘案されての第2楽章後の休憩なのかもしれない。

それにしても、今回の演奏では、続く第3楽章が印象に残った。ずいぶんとテンポを動かして、「少年の魔法の角笛」から採られた「魚に説教するパドヴァの聖アントニウス」の歌曲のシニカルなイメージとはずいぶん違った、文字どおり「君たちが嫌悪の叫び声を上げて起き上がることのよくある悪夢」を再現しようとしたかのような演奏であった。
でも、そのことが却って、第4楽章以降の神聖な雰囲気を高めることにもつながっていた。

第4楽章の原曲は、同じく「角笛」からの「原光」。管楽器による静かなコラールがいかにも美しい。
“単純な信仰の壮快な次のような歌が聞こえてくる。私は神のようになり、神の元へと戻ってゆくであろう。”
そうして、終楽章へ。
“荒野に次のような声が響いてくる。あらゆる人生の終末はきた。…最後の審判の日が近づいている。大地は震え、墓は開き、死者が立ち上がり、行進は永久に進んでゆく。この地上の権力者もつまらぬ者も-王も乞食も-進んでゆく。偉大なる声が響いてくる。啓示のトランペットが叫ぶ。そして恐ろしい静寂のまっただ中で、地上の生活の最後のおののく姿を示すかのように、夜鶯を遠くの方で聴く。”
舞台裏に配置されたバンダが異世界から呼びかける声のように響く。金管楽器による荘重なコラール。そしてそれに続く行進。再び舞台裏からの呼び声。それにピッコロが夜鶯の声で応える。

復活の合唱が始まる。
“柔らかに、聖者たちと天上の者たちの合唱が次のように歌う。「復活せよ。復活せよ。汝許されるであろう。」そして、神の栄光が現れる。”
この静かな合唱が終わったあとの心に染み入るようなトランペットのソロ。個人的には「復活」の中で最も好きな部分である。
“不思議な柔和な光がわれわれの心の奥底に透徹してくる。…すべてが黙し、幸福である。そして、見よ。そこにはなんの裁判もなく、罪ある人も正しい人も、権力も卑屈もなく、罰も報いもない。…愛の万能の感情がわれわれを至福なものへと浄化する。”
合唱と大管弦楽に、パイプオルガンも加わって、壮大なくクライマックスが築かれる。「愛の万能の感情がわれわれを至福なものへと浄化する」という終結部は、そのまままっすぐ8番のフィナーレへとつながっている。
それにしても、みなとみらいホールの舞台正面に設えられたパイプオルガンは、大オーケストラと合唱に負けないほどの音響を響かせてくれた。

惜しみない拍手が、インバルと独唱者、合唱団、そして都響のメンバーに贈られる。
この日のチケットは完売。座席は多少空席があったが、ほぼ満員の状態であった。
今や、インバル・都響のマーラーは、本邦における一つの「ブランド」である。
感動が約束されているという意味では、面白味に欠けると思われる向きもあるのかもしれない。でも、外国のオーケストラによる数万円のチケットを購入しなくても、それよりはずいぶん安価でこんなにもすばらしいマーラーが聴ける。その意義はたいへんに大きい。

この日は、台風17号の接近が報じられていた。終演後、横浜は雨が降り始めていた。帰途の東名と新東名は、ひどい風雨であった。
でも、心は満ち足りていた。そんなインバル・都響によるマーラーの「復活」だった。