スーさん、シェーンベルクを語る。

9月12日(水)

9月13日は、シェーンベルクの生誕138年である。
シェーンベルクと言えば、無調音楽や12音技法の創始者として名高い。

「無調音楽」
“西洋音楽の歴史の中で数世紀の時間をかけて築き上げられた「調性」という名の調的な主従・支配関係に基づく音組織を否定し、19世紀末期から20世紀初頭にかけて新たに形成された音組織の概念である。調性のない音楽のことを無調音楽という。”

「12音技法」
“12平均律にあるオクターブ内の12の音を均等に使用することにより、調の束縛を離れようとする技法”(いずれも@Wikipedia)

クラシック音楽の愛好家の中でも、無調や12音の音楽はどうも苦手という方が多いのではなかろか。
曰く、「不協和音ばかりで不快だ」、「単なる騒音にしか聞こえない」、「何を表現しようとしているのかさっぱりわからない」等々。
シェーンベルクの生前にも、そんな酷評はいくらでもあったと思われるのに、どうしてシェーンベルクは無調や12音技法で作曲しようと思ったのか。
手がかりにするのは、「管弦楽のための5つの小品」(op16)である。

この作品は、1909年に書かれ、のち1922年に改訂された。
岡田暁生氏が指摘する(『「クラシック音楽」はいつ終わったのか?』人文書院刊)ように、第一次大戦を挟んで改訂がなされているのは、たいへんに興味深いところだ。
シェーンベルクが作曲を始めたのは、後期ロマン派の影響が色濃く残っている時代だった。当然のことながら、シェーンベルクの初期の作品(「浄夜」、「ペレアスとメリザンド」、「グレの歌」など)は、後期ロマン派の様式で作曲されている。
その後期ロマン派の様式を脱して、無調音楽へと向かい始めたころに作曲された曲の一つが「管弦楽のための5の小品」である。

曲は題名のとおり、5つの曲から構成されている。
それぞれの曲には表題が付けられているため、多少なりともそれが曲を理解するための手がかりにはなろう。
第1曲「予感」
弦楽器の刻むリズムが、何かがやってくる「予感」を感じさせる。そういう意味での表題なのかもしれない。
第2曲「過去」
昔のことを一人静かに回想しているような曲である。
第3曲「色彩」
何とも変わった印象の曲である。音色がまるでプリズムのように変化する。夕日が沈んだあとの、刻々とその色調を変えていく空を見ているようだ。得も言われぬ美しさが感じられる。
第4曲「急転」
いきなり大音響の不協和音!全編ほぼ無調の音楽が展開される。
第5曲「オブリガート・レチタティーヴォ」
特に、終曲という感じでもなく、第4曲に続いて最後まで無調音楽が展開され、終わりの印象もなく曲が閉じられる。

シェーンベルクが無調音楽へと向かったその大きな理由の一つは、この第3曲を聴くと何となく分かるような気がする。
彼は、今まで誰も聞いたことがなかったような音色を創造したかったのだ。

12音技法についてはどうか。
12音すべての音を均等に扱って音列を作り、その音列により楽想が展開されていくのだ。ある意味、作曲に数学的な処理が施されると言えばよいだろうか。
数学的な処理ならば、その方法を覚えてしまえば、理論上は誰でも作曲が可能になるはずだ。

12音技法がほぼ完成されたとき、シェーンベルクは弟子であるヨーゼフ・ルーファー(1893-1985年、オーストリア出身のドイツの音楽学者・音楽教師。楽譜の校訂や出版にも携わった@Wikipedia)に、「私は12音技法で今後100年ドイツ音楽の優位が保証されると思う」と語ったそうだ。
この言葉は何を意味しているか。

12音技法が完成されたのは1921年。
その4年前にはロシア革命が起こり、世界で初の社会主義政権が誕生している。
ご存知のとおり、ロシア革命の理論的支柱となったのは、マルクス・レーニン主義である。
マルクスは、資本を社会の共有財産に変えることによって、階級のない協同社会の実現を目指した。
同様に、シェーンベルクもそれまで貴族階級を中心に発展してきたヨーロッパ音楽を、方法さえ理解すれば誰でも作曲ができるという12音技法を完成させることで、広く民衆の手に取り戻そうとしたのではなかろうか。

しかし、マルクス・レーニン主義がイデオロギーとなっていく過程でだんだん現実と乖離していったように、12音技法もその方法による縛りがより厳格になっていくことで、庶民のものとなるどころか、作曲法はその難易度を増していった。
シェーンベルク自身も、12音技法の完成を見たあとの作曲は、そう多くはない室内楽曲とピアノ曲を創作したくらいである。これは、12音技法のイデオロギーに、シェーンベルク自身も縛られてしまった結果であると言えはしないだろうか。

そんなことを想像しながら、「管弦楽のための5つの小品」を聴いてみる。
演奏は、サイモン・ラトルがバーミンガム市響を指揮したもの。
特に、第3曲の美しさは喩えようもない。無調音楽とは言え、こんなにも美しい音色が聴けるのだ。
こういう音楽を聴くときには、ベートーヴェンを聴くのと同じような聴き方をしてはならないのであろう。
例えば、「苦悩を通して歓喜へ」というような、文学的なテーマ性を期待して聴いてはならないということだ。
でも、音楽から伝わってくるメッセージは、ある。確かにある。

現在では、実際に12音技法を使って作曲する作曲家はほとんどいない(@Wikipedia)と聞く。
そういう意味では、残念ながらシェーンベルクが期待したような12音技法の完成による「100年のドイツ音楽の優位」は叶わなかったのかもしれない。
しかし、シェーンベルクが「管弦楽のための5つの小品」の第3曲で示したように、無調音楽や12音技法には、まだまだ未知の可能性が十分にあるのではないか。
シェーンベルクが、それまでの貴族中心に発展してきたヨーロッパ音楽の伝統に革命的な影響を与えたように、クラシック音楽の新しい伝統は、これから築かれていくのであろう。もちろん、大きな期待を込めつつ。