スーさん、今日はバルトークについて語る

8月19日(日)

『「クラシック音楽」はいつ終わったのか?』(岡田暁生、人文書院)を読んだ。
え?クラシック音楽って、もう終わっていたの?
それが、この本を手に取るきっかけだった。

「はじめに」には、こう書かれていた。
“今日コンサートホールで演奏されるクラシック音楽のレパートリーのうち、第一次世界大戦より後に作られたものが占める割合の小ささは、驚くほどである。バルトークのようにかなり知名度がある作曲家にしても、その作品が上演される頻度は、例えばベートーヴェンやブラームスやチャイコフスキーと比べれば、微々たるものだろう。一昔前のレコード店ではよく、シェーンベルクやヒンデミットやバルトークの作品が、「クラシック」ではなく、「現代音楽」のコーナーに置いてあることがあった。一九一〇〜二〇年代にかけて作られた曲ですら、二十世紀後半になってなお、「現代音楽」に分類されていたのである。一見時代錯誤とも見えるこのカテゴリー分けは、第一次世界大戦を境にして生じた西洋音楽史の質的変化を端的に示している。”(10〜11頁)

著作は、第一次世界大戦前後がその後の西洋音楽史にどのような影響を与えたのかということを、5つの出来事を手掛かりにして分析している。すなわち、
1)前衛音楽の登場、2)アメリカのポピュラー音楽の普及、3)レコードの一般化、4)音楽における国際主義、5)音楽の政治化、である。
中でも、大戦後に消滅した4つの帝国(オーストリアーハプスブルグ家、プロイセンーホーエンツォレルン家、ロシアーロマノフ家、トルコーオスマン家)の政治的影響が与えた衝撃は甚大であった。これにより、
“オペラや交響曲といった音楽ジャンルは、従来の貴族や上流ブルジョアからの経済的支援を、一気に失うことになった”(31頁)からだ。

確かに、現在も演奏会などで聴く機会が多いのは、圧倒的に第一次世界大戦前に作曲された作品である。
では、第一次世界大戦後はどのような作曲家がいるのか。
Wikipediaによれば、
「新古典派」:エリック・サティ、パウル・ヒンデミット、イーゴリ・ストラヴィンスキー
「社会主義リアリズム」:セルゲイ・プロコフィエフ、アラム・ハチャトゥリアン、ドミートリイ・ショスタコーヴィチ
「新ウィーン楽派」:アルノルト・シェーンベルク、アルバン・ベルク、アントン・ヴェーベルン
「新民族音楽主義」:ベーラ・バルトーク、伊福部昭、ニコス・スカルコッタス、カロル・シマノフスキなど
などの作曲家たちが挙げられていた。

おお、錚々たる作曲家たちがいるではないか!
誰を取り上げてもよいのだが、上記の作曲家たちの中で最も好きな作曲家を1名挙げるとするなら、バルトークである。
バルトークといえば、晩年に作曲された「管弦楽のための協奏曲」がたいへん有名であるが、今回は第一次世界大戦直後に作曲が開始された舞台音楽「中国の不思議な役人」を取り上げてみたい。

この曲には台本がある。バルトークと同郷の劇作家メニヘールト・レンジェルの執筆によるパントマイムである。
これが、どうもいかがわしい雰囲気の台本なのである。
舞台は近代的な大都会。3人の悪党の男と彼らの言いなりになっている少女。悪党たちは、少女を使って通行人を誘惑させ、自分たちが潜んでいるアパートの部屋に連れ込んで金を奪おうと算段する。
最初の誘惑者は老人、二人目は内気な若者、そして三人目が中国の役人。
警戒してか、なかなか部屋の中に入ってこない中国に役人に対して、少女は官能的なワルツを踊って役人を誘惑する。その踊りに興奮して、少女を追いかけようと役人が部屋に入ってきたところで、3人の悪党が身ぐるみを剥がす。そして、ベッドのクッションで役人を窒息死させようとしたが果たせない。3人は役人をシャンデリアに吊るすが、哀れに思った少女の懇願で床に降ろされる。少女の腕に抱かれて、役人は事切れる。
こんなストーリーである。

もちろん、初演は困難を極めた。
“あまりに生々しい台本の影響もあってか、当初予定していたブダペスト歌劇場での初演は実現せず、初演は1926年11月にドイツのケルンで、同地の国立劇場音楽監督を務めていたバルトークの知人のハンガリー人指揮者、センカール・イェネーの指揮で行われることとなった。しかしバルトークも臨席した初演は不評だった上に、教会関係者などから台本の内容の不謹慎さを批判する声が多く、コンラート・アデナウアー市長の判断でこの1日で上演品目から下ろされ、センカールが市議会から譴責処分を受けるというスキャンダルに発展する。
1927年2月19日に今度はチェコスロヴァキアのプラハで再演された。こちらはひとまず成功したものの、しばらくしてこれも「台本が不謹慎」として月末には上演禁止になってしまう。その直前にもブダペストでの上演計画がまた失敗していた。”(@Wikipedia)

曲は、目が回るような弦楽器の唸りで始まる。車のクラクションを思わせるトロンボーンの咆哮、それにトランペット、木管楽器群が加わって、近代的な大都会の喧騒ぶりが描写される。そんな大都会の暗部を象徴するかのような弦楽器。
そんな強烈な序奏に続いて、少女の誘惑ゲームが始まる。少女の誘惑の言葉はソロのクラリネット。老人が、内気な若者が、次々に誘惑されては叩き出されてしまう。
そうして中国の役人の登場。誘惑する少女の踊りは、いかにも不思議な雰囲気のワルツである。
そのエロティックな踊りにだんだんと興奮してくる役人。弱音器を付けたトロンボーンがその興奮ぶりを表すかのように激しく奏され、弦楽器がまるでストラヴィンスキーの「春の祭典」のバーバリズムを思わせるような激しいリズムを刻む。追いつ追われつの阿鼻叫喚。
悪党が登場して役人を押さえつけ、ベッドで窒息死させようとする。しかし、役人は死なずに頭を持ち上げる。ヴォカリーズの合唱も加わって、何とも不気味な雰囲気を醸し出す。
終曲は役人の最期である。少女の腕の中で満足して死にゆく役人の心臓の鼓動が聞こえるようである。

第一次世界大戦で敗戦国となったハンガリー国内は、混乱の極にあった。バルトーク自身も、離婚と再婚を経験し、個人的にも落ち着かない時期に、この「中国の不思議な役人」は作曲された。
そんな雰囲気がこの音楽にも十分に反映されているのであろう。

同時代の社会の雰囲気が、その音楽にも反映される。
第一次世界大戦中、ドイツの音楽学者パウル・ベッカーは、その著『ドイツの音楽生活』(1916年)で、「音楽とは作曲家と社会の共同作業の産物である」と主張した。
“ベッカーは「社会学的な前提条件がより多彩で内容豊かであるほど、それは創造者により力強い摩擦面を提供し、一層意味深い個性がそこから生じてくる」と言う。世俗とののっぴきならない対決なくしては、芸術が真の生命力を獲得することは出来ない。”(@岡田暁生)
しかし、こうした「音楽の社会的ミッション」の要請が、逆に音楽家たちの創作意欲を萎ませていったのではないか。

そんな移行期間とも言うべき時期に作曲されたバルトークの「中国の不思議な役人」。
少なくとも、この曲を聴くかぎり、「クラシック音楽は終わっていない」。バルトークは、自分が描きたいと思う曲を書いた。「音楽の社会的ミッション」など意識せずとも、その音楽の中には否応なしに同時代の雰囲気が織り込まれていくのである。

演奏は、サイモン・ラトルが古巣であるバーミンガム市響を振ったもの。
最初の序奏から引き込まれる。聴かせどころである第6曲「追っかけ」も迫力満点で、つい身体が動き出してしまうほどの、すばらしい演奏である。