スーさん、ラフマニノフについてちょっと語る

4月26日(木)

クラシック音楽を聴くときには、その曲にまつわるエピソードを知っていようがいまいが、それがその曲を聴く際に致命的に重要な要素となるというようなことはない。

でも、時にはエピソードを知ったことで、よりいっそうその曲が好きなるというようなことはある。
ラフマニノフのピアノ協奏曲第3番のことだ。
次のようなエピソードがある(以下、ウィキペディアから引用)。

“初演は1909年11月28日に作曲者自身のピアノと、ウォルター・ダムロッシュ指揮ニューヨーク交響楽団との共演により行われた。
さらに1910年1月16日にはグスタフ・マーラー指揮ニューヨーク・フィルハーモニーとの共演により二度目の演奏が行われた。
リハーサルの際、当時スラヴ系の音楽の演奏・解釈に不慣れだった楽団員がざわついたために、マーラーが「静かにしなさい。この曲は傑作だ。」と言ってオーケストラをなだめ、この演奏の為に時間になっても団員を帰さず、完璧を目指して長時間の練習を続けた。
そのマーラーの根気にラフマニノフも感銘を受け、後にオスカー・フォン・リーゼマンに「ニキシュと同列に扱うに値する指揮者はマーラーだけだ。」と語った。”

え?マーラーって、「あの」マーラー?
そうなのだ。当時は作曲家としてより指揮者として世界的にその名を知られていたマーラーが、この曲を指揮したのだ!
もちろん、マーラーはスコアを読んですぐさま、指揮者・作曲家としての直感によって、このラフマニノフの3番目のピアノ協奏曲が傑作であるという確信を持ったに違いない。

リハーサルをしていたマーラーは、件の言葉をいつ発したか。
それはきっと、第1楽章のリハーサルが終わった直後であったろう。
第1楽章は、その始まりの第1主題からしてなんとなく平凡な感じだし、何よりやたらと長い。演奏者たちには、どうもその全体像がつかみにくいのだ。リハーサルが進むに連れて、そんな印象が小波のようなつぶやきとなって、楽団員たちの間に広がっていった。
カデンツァでは、さすがに名手ラフマニノフの超絶技巧に思わず耳をそばだてたが、それでも第1楽章が終わった時点で、曲に対する批判的な言葉の数々がラフマニノフの耳にも聞こえてくるほどになっていた。
その時である。
「静かにしなさい。この曲は傑作だ。」
思わずマーラーを見上げるラフマニノフ。
そのマーラーの言葉で静かになった楽団員たちを前に、ゆっくりと指揮棒を下ろし、第2楽章の間奏曲(アダージョ)のリハーサルが始まる。
マーラーの言葉に触発されるように、弦楽器の心のこもった和音、続いてオーボエが透き通るように美しいメロディーを奏でる。そのオーボエに代わって弦楽器がそのメロディーを引き継ぐ。そしてメランコリックな雰囲気が盛り上がったところでピアノが入ってくる。
もちろん、ピアノ奏者であったラフマニノフにもマーラーの言葉はしっかりと刻まれている。それは、先ほどの第1楽章とは打って変わったような音色を響かせていることではっきりとわかる。
再び冒頭のオーボエのソロが戻ってくる。ホルンが引き継ぎ、弦楽器へ。そうしてピアノによる第3楽章への橋渡し…。
そこで一旦曲を止めるマーラー。
見違えるような演奏をした楽団員たちを褒め称える言葉が贈られる。
ニューヨーク・フィル楽団員たちも、この第2楽章を演奏して初めて、この曲がまさしくマーラーの言うとおり傑作であること確信する。
長時間のリハーサルの後半は、楽団員たちの自主的な申し出があってこそのことであったろう。

そんな光景が目に浮かぶ。
だから、このピアノ協奏曲はぜひ第2楽章の間奏曲から聴いてほしい。
指揮をしているマーラーの姿が、ラフマニノフの弾くピアノ越しに見えてくるはずだ。

「静かにしなさい。この曲は傑作だ。」
だから、演奏者がどうのこうのという問題ではない。
たまたま家にあったのは、娘が購入したアシュケナージのピアノ、ハイティンク指揮、アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団のCD。
英デッカによる、残響の多いと言われているコンセルトヘボウでの録音がとてもいい。
アシュケナージは、最近は日本の交響楽団を指揮しているが、やっぱり彼は指揮者と言うよりはピアニストの方が断然いいような気がする。歯切れのいい、そうして美しい音色のピアニズムだ。
ハイティンクのサポート、そうしてオケは名門アムステルダム・コンセルトヘボウ。
言うことなしの一枚である。