12月12日(月)
土曜日は、県中学生選抜男子ソフトテニスチームの第1回練習会。
先月末に行われた県新人大会個人戦で選抜された選手たちが、一同に会しての練習会である。
この県選抜チームというのは、最終的に毎年3月末に三重県伊勢市にて開催されている都道府県対抗全日本中学生ソフトテニス大会に出場する選手を育成するために編成される。
もちろん、その前段階として日本連盟が主催する「競技者育成プログラム」(U-14)のための選考会もあるのだが、その時期は夏休みである。そうして、各県から選抜された選手たちが集う東海ブロックレベルの選考会(Step3)も、ほぼ8月の終わりに行われる。最終的にStep4に進む全日本レベルの選手育成ということを考えれば、夏休みの時期に開催されてもよいと思うが、翌年3月の大会に参加するための県レベルでの選手選考ということになると、夏休みの選手選考の結果をそのまま適用するというわけにはいかないところもある。
選手の成長が著しい中学生の場合は、特に実戦を通してその実力が培われていくということがあるからだ。となると、各地区で新人大会が行われる10月以降の試合結果も勘案しなければならなくなる。
その辺の事情も踏まえて、県連盟の中学生委員会では都道府県対抗戦に出場する選手選考のための内規を設け、県新人大会個人戦をその選手選考の場とした。実際の試合でそれなりの結果を出した選手を、その将来性も考慮しつつスタッフで協議して9ペア選ぶことにしたのである。
9ペアというのは、冬休み中に愛知県で行われる東海地区各県選抜チームによる対抗戦(東海インドア)に出場する、団体3チームの選手たちということである。
そうして、それらの選手の中から、2月に関東・東北・北信越各ブロックの選抜チームを招いて富士宮にて行われる研修大会に出場する選手、団体2チーム6ペアを選考する。その試合結果を踏まえて、最終的に都道府県対抗戦に出場する選手4ペアを決定するのである。
もちろん、試合だけで選考するわけではなく、その間に何度か行われる練習会でのパフォーマンスも十分に考慮される。技術面はもちろん、精神面でも県代表選手に相応しいかどうかということが検討されることは言うまでもない。
昨年度は、東日本大震災が発生したばかりということもあり、都道府県対抗戦は中止となった。
監督として3年目、内心ここで区切りと考え、結果についても秘かに期すところがあったのだが、幻の大会となってしまった。
そのまま監督も辞退しようと思っていたのだが、中学生委員会からは監督続行を要請された。最初の2年は団体戦は初戦負け。今年こそと臨んだ3年目は大会が中止。このまま何も結果を残せないままに監督を辞めてもいいのかという自問もあった。
あれこれ思案の末に、今年も監督を受諾することにした。
スタッフも替わった。最初に監督を引き受ける条件として主務に要請したヨッシーは、家庭の事情もあって
続行が難しいとのことで、代わりにオノちゃんがその役を引き受けてくれることになった。
これまで、主に前衛コーチとして練習の面倒を見てくれていたヤマガタくんも、家庭の事情でコーチを降りることになった。代わりに強力な助っ人をお願いすることにした。
富士宮のオノダくんは、引き続いてヘッドコーチ格で残ってくれた。あとは、同じく富士宮の若手代表でサノくんがお手伝いしてくれることになった。以上が実働スタッフである。
さて、今年の選手たちである。
件の県新人大会では、後衛選手ばかりが目についた。前衛選手は、練習を通して育成しなければならないだろうというのが、スタッフの一致した見解だった。
しかし、実際に練習をしてみると、なかなかどうしてどの前衛選手もそれなりのパフォーマンスを見せてくれた。特にゲーム練習では、いつものペアと違って新鮮だったためか、県大会では見られなかったプレーを随所に見ることができた。今後の練習でレベルアップしていけそうな印象も持てた。これはうれしい収穫だった。
来る東海インドアでは、レベルの高い岐阜県選抜などと対戦することで、選手たちが多くのことを吸収してくれることを期待したいと思う。
練習会が終わって、その日の夜は久しぶりに支部の例会。
まずは、新装オープンした中華料理店で腹ごしらえをして、いつもの寿荘へ。メンツは、ヨッシー、オノちゃん、オータくん、支部長である。
この日の夜は、月食だった。
月が陰り始めるのとほぼ時期を同じくして、わが点棒は次々と放出されていった。
逆に、第2ラウンドに入って俄然トップに躍り出たのは、育成組からステップアップしたオータくんだった。親で和了ったのをきっかけにして次々と和了り続け、終わってみれば6万点超の堂々たるトップ。
支部の仲間入りをして以来、記念すべき初の1勝を挙げたのである。
「いやあ、月食の夜は何かが起きますね。このこと、日記に書いてくださいね」とはオータくんの弁。そのオータくんの初勝利を多として、ここに記すことにしたのである。