スーさん、心ひかれる

5月30日(月)

「ん?ハッカーって、コンピュータネットワークとかに侵入して、情報を盗み出したり、ウィルスを送りつけたりする人のことだろ?」
ずっとそう思ってきた。
が、どうやらそうではないらしいということを最近になって知った。

きっかけは、4月になって勤務先が変わり職場内での分掌も変わったことから、ちょっと今までとは違った仕事の仕方も考えてみようかと思うようになったことだった。
で、今まではほとんど買ったこともなかった「仕事術」の本なども読んでみたりしているうちに、「ライフハック」という言葉があることを知ったのである。

それは、何かするにしても「こうやってやればもっと便利だしオシャレでしょ?」というようなことを意味するものらしかった。
Wikipediaによれば、“自身の生活や仕事のスタイルにおいて「気の利いた手段で、もっと快適に、もっと楽して、もっと効率良く」という方法を追求して行くこと”と定義されている。なるほど。
自分の場合、こういう「もっと便利だしオシャレじゃん」という提案にはからきし弱い。つい、「おお、そういうやり方があったか!」とひどく感心してしまうことがほとんどなのである。
そうして、「んじゃオイラもやってみよう!」とばかりに、せっせと文具店に足を運んでは、本の中で紹介されていたステーショナリー類を買い求めてしまうである。

ライフハックに興味を持つようになったのには、iPhoneを使うようになったことも大きく与っている。件の「仕事術」の類の本には、必ずと言っていいほどiPhoneを上手に利用した仕事のやり方が書かれていたからだ。と言うか、もともとはiPhoneのさらなる有効活用ということで、そんな「仕事術」の本を読んだのだけれど。

こんなことは今さら言うまでもないことであるが、iPhoneはいろんなアプリを入れなかったら、単なるケータイ電話である。しかし、様々なアプリを入れていくことで、時に音楽プレーヤーに、ゲーム機に、フォトフレームに、メモ帳に、ノートに、カメラに、データ端末にと、日常生活に欠かせないありとあらゆるガジェットに変身してくれるのだ。
まさに、「もっと快適に、もっと楽して、もっと効率よく」というライフスタイルにひどくマッチするガジェットだったのである。
というわけで、iPhoneにはせっせといろんなアプリを入れてみた。とりあえずは、無料のものばかりを。
それら無料アプリにも優れて使い勝手のいいアプリはたくさんあった。
例えば、カレンダーアプリ「SnapCal」やノートの定番「Evernote」、オンラインストレージの「Dropbox」に、無料電話の「Skype」、Twitterのアプリでは「Teewee」、「Echofon」等々。
だけど、いろんな「先達ライフハッカー」たちのブログなどを覗いてみると、やはり日常的に使用して役立つアプリには有料のものが多いということも知った。蓋し当然であろう。

こうして、だんだんと有料のアプリも入れてみるようになった。
例えば、カメラアプリでは「One Cam」と「Camera+」。どちらもたいへんに使い勝手がいい。撮った写真を加工できるのもありがたい。
写真共有では「PictShare」。これは、iPhoneで撮った写真をその日にちごとに分類してくれるだけでなく、すぐさまいろんな写真共有サービスへとアップできる。
天気予報の「Celsius」は、アイコンのバッヂで現在の気温が確認できる。だから何だと言われそうだが、これがまたオサレなアプリなのである。
「類語辞典」も入れた。だって、1200円だったのだ。類語辞典を買うことを思えば格段に安価である。
他には、「ききみみ」。鳥の鳴き声がしている方へiPhoneを向けてその声を録音すると、それが何という鳥の鳴き声かを判定してくれるアプリだ(判定まちがいも多いけど)。

こうして、「おーし、これでオイラもライフハッカーさ」となるはずであった。
しかし、けっこう沢山のアプリを入れたので、目的のアプリがどこにあるかわからなくなってしまったり、「このアプリ何だっけ?」と思うものも出てきてしまう始末だ。だから、最近はよく使う順にアプリを並べて「見える化」を図り、あまり使わないものはフォルダにしまい込むようにしている。
まさに、一流のライフハッカーを目指すには、日々これ試行錯誤の連続で、その実践の積み重ねが「ライフハッカー」への着実な歩みとなっているのである(たぶん)。まだまだ遠き道のりなのである。

どうして自分はこういうことに心ひかれるのだろうということが、最近ある本を読んで何となくわかったような気がした。
その本とは、『ウェブ×ソーシャル×アメリカ』(池田純一、講談社現代新書)である。
自分が所謂青春時代を送ったのは1970年代である。60年代に始まった「カウンターカルチャー」の影響は、自分たちの高校・大学時代にはまだ色濃く残っていた。
御多分に洩れず、自分もそんな時代の空気を吸い、世の「主流」や「権力」や「体制」に対抗的であることがとてつもなくカッコいいことであると感じていたのである(それは今この歳になってさえも心の何処かにしっかりと根を下ろしている)。
だから、例えばMacが好きになったのだ。「てやんでい、config.sysなどと打ち込まなきゃ立ち上がらないようなシロモノなんぞ、パーソナル・コンピュータなどとは言わねえんだよ」と思い、PC98は頑として使わなかったりしたのだ。

時に読書は、その本が思いもしなかったことを読者に知らしめることがある。
本を読むことで、自分がたどってきた道のりを知ることができることもある。
これが読書の醍醐味なのである。
本を読むとは、自分のことを知ることなのである。