スーさん、ちょっとゆらぐ。

2月21日(月)

『キュレーションの時代』(佐々木俊尚/ちくま新書)を読んだ。
なかなか刺激的な著作だった。
以下、ところどころ傍線を引いた箇所を書き留めておきたい。

まずは、第2章から。
○消費といえども、ひとりの人間と社会の間にどのような関係を作るのかという、その関係性の確認です。(109頁)
○承認と接続のツールとしての、消費。そして、その承認と接続は、お互いが共鳴できるという土台があってこそ成り立っていく。この「共鳴できる」「共感できる」という土台こそが、実はコンテキストにほかならない。(115頁)
○コンテキストは「文脈」というように訳されますが、そのようにして消費を通じて人と人がつながるための空間。その圏域をつくるある種の物語のような文脈がコンテキストということなのです。(116頁)
○マスメディアの衰退とともに記号消費は消滅していき、二十一世紀は「機能消費」と「つながり消費」に二分された新しい世界が幕を開けるのです。(128頁)
注.(筆者の言う「機能消費」とは、例えばファストフードやファストファッションのこと。)
○消費さえもが不要である無所有の方向性。「つながり」を求める場は、モノの購入ではなく、何かを「行う」という行為へと変移していくことでしょう。(133頁)

日本社会全体に、経済の停滞を軸にした閉塞感が蔓延している昨今、筆者が言うとおり「記号消費」にうつつを抜かそうという輩は、ほとんどいなくなったと言えよう。
それでもなお、バブル時代の華やかな消費活動の復活を夢見て、現状が何とか昔のようにならないものかと悪戦苦闘している人たち。しかし、時計の針は元には戻っていかないものなのだ。
でも、自分にしたって、心のどこかで、いずれはもっと景気も良くなって気前よくお金を使えるような時代が来るのかもしれないと、期待しているようなところもある。どうやら、そういう時代はもうやって来そうにない。

続いて第3章より。
○視座にチェックインし、視座を得るという行為。これはあなた自身の視座とはつねにずれ、小さな差異を生じつづけています。「あなたが求めている情報」と「チェックインされた視座が求めている情報」は、微妙に異なっていて、そのズレは収集された情報につねにノイズをもたらすことになります。そして、このノイズこそがセレンディピティを生み出すわけです。(198頁)

「チェックイン」とは、例えば、Twitterで面白そうなツイートを見つけ、その人をフォローすることでその人からのタイムラインが流れ込んで来るのだが、その場合タイムラインの中ではその人の視座で世界を見ていることになる、その人の視座に「チェックイン」していることなる、ということだ。
これはたいへんにおもしろい発想である。そうして、その視座と自分の視座との「ノイズ」がセレンディピティを齎すというのである。

さらに、第4章。ここでは、題名の「キュレーション」について述べられている。
○私たちは情報そのものの志願をみきわめることはほとんど不可能だけれども、その情報を流している人の信頼度はある程度はおしはかることができるようになってきているのです。(210頁)
○私たちの世界の膨大な情報のノイズの海から、それぞれの小さなビオトープに適した情報は、無数のキュレーターたちによってフィルタリングされていきます。それであるがゆえに、「何が有用な情報なのか」というセマンティックボーダーはゆらいでいきます。その「ゆらぎ」こそが、セレンディピティの源泉となる。(252頁)
○「ゆらぎ」こそが私たちの社会を健全に発展させていくための原動力になっていくのは間違いない。ゆらぎのない硬直化した同心円的閉鎖社会から、私たちは「ゆらぎ」をつねに生み出すダイナミックな多心円的オープン社会へと、いまや踏み込みつつあるのです。(260頁)

「セマンティックボーダー」や、「キュレーター」なる言葉が何を意味しているのかは、実際に著作を読んでいただきたい。
キーワードは「ゆらぎ」。
「かくあるべし」や、ステロタイプで表象して理解することは、厳に慎んでいこうと思う。「ノイズ」が聞き取れなくなるからだ。

今、自分が生きている時代がどんな時代なのか。
この著作は、そんな問いに一つの確実な答えを与えてくれるであろう。