スーさん、大学院のことを思い出す

1月24日(月)

学校週5日制が完全実施されることで、学習内容は大幅に削減され、その代わりに総合的な学習の時間が新設されるなどして、学習指導要領がその大幅改訂された。義務教育は「ゆとり教育」へと大きく舵を切っていた。2002年のことである。
その告示を受けて完全実施されるまでには4年間の移行期間が設けられた。この改訂は、従来の改訂に比しても大幅な改訂だったため、それを受ける現場も少なからず混乱していた。
「教育はこれからどうなっていくのだろう。」そんなことを、教育現場にいる誰もが考えていた。
ご多分に漏れず、自分も漠然とそんなことを考えようとしていた。しかし、悲しいかな自らの暗愚な頭では、なかなかその答えを見つけることはできなかった。
かくなる上は、先賢の典籍に頼るしかない。読書をすることで自らの見識が高まれば、教育に関することは言うに及ばず、あらゆることに自分なりの考えを持つことができるようになるであろうと思い、ミレニアムの始まった頃から取り憑かれたように本を読んだ。

今にして思えば、いくら読書をしようが自分なりの視点を持って読まなければ、所詮読書によって一時的に得た知識はその著者の受け売りでしかなく、例えてみればコンピュータのRAM(ランダムアクセスメモリ)上のデータのような知識なのであった。
読了した本ばかりがいたずらに増えていくだけで、自分の見識は一向に高まったようには思えなかった。

そんな時だった。『おじさん的思考』(晶文社)に出会ったのは。
確か、朝日新聞の書評欄で紹介され、これはおもしろそうだと思ってすぐに買い求めに出かけることにした。浜松市内の書店を見て回ったがどこにもなかった。仕方がないので、お隣りの豊橋市にあるS文館書店に行くと、果たして店頭に置いてあった。すぐに買い求めた。

衝撃を受けた。それまで読んだ、どの本とも違っていた。
当時、学年主任をしていた私は、学年の職員に向けて毎日発行していた学年業務日報に以下のように書いた。
「とびきりの1冊を紹介します。『おじさん的思考』です。題名から、何となく中身が想像できそうですが、そんなイメージとはほど遠い、きわめて知的な内容です。既に、自他ともに“おじさん”を認めている私は、もし自分が書くとしたら、こんな内容の本を書きたい!という気持ちにさせられました。」(平成14年6月26日)
同じ著者による他の本もぜひ読んでみたいと思い、次々と買い求めることにした。そうして、それらの本を読み進むに連れ、「この人だ。師と仰ぐのはこの人しかいない。」と確信するようになった。
ほぼ時を同じくして、研究室のウェブページも拝見するようになった。

ある冬の夜、帰宅していつもと同じように研究室のHPを見ていると、著者による大学院ゼミ(「日本文化論」)の聴講生募集の記事を見つけた。どうやら、次年度から大学院の聴講生に限って、男子の聴講も認めるとのことであった。
激しく心が動いた。行ってみたい。いや、どうしても行きたい!と思った。
矢も盾もたまらず、研究室の先生のアドレスと覚しきところへ、演習回数等も含めたお問い合わせのメールを送った。

しばらくして、自宅のメーラーに、「内田樹です」というメールが届いていた。
まさか、その本人から返信があるとは思わなかった。思わず、椅子から飛び上がらんばかりに驚いた。
すぐ隣で家事をしていた妻に、「ねえねえ、う、内田先生からメールが来てるよ!」と叫んだことを覚えている。
メールには、「メールありがとうございます。中学校の先生ですか。聞きたいこと、言いたいことが山のようにありますのでぜひぜひ聴講生に来て頂きたいです。」とあった。
即座に、妻には「4月から週に1回、神戸女学院の大学院ゼミに行くから」と言った。妻は、「交通費どうすんの?」とか、そのことに関わるあれこれの諸問題については何も言わなかった。ありがたかった。
これで行くことが決定した。

聴講生として認可するかどうかを決める面接があるということだった。その前に、レポートの提出が課せられた。求められたとおりにレポートを書いて送り、面接の日を迎えた。
初めて、神戸女学院大の門をくぐった。指定された控え室に行くと、既に何人かの人たちが控え室で話をしていた。当然ではあるが、誰も知り合いはいなかったので、面接で自分の順番が来るまでは、黙ってひたすら本を読んでいた。今にして思えば、その部屋でバリバリの大阪弁を話していたのが江さんだった。元気のいい人だなあと思っていた。
呼ばれて面接室に行った。奥に、二人の男女が向かい合わせに座っており、その人たちと直角で向きあうように面接が行われた。男性は、もちろん内田先生であった。眼鏡を掛けていらしたため、写真で見る印象と少し違った。
面接では、そのときの中学校の教育現場のことをあれこれ話をした。先生は、「ホントに、文科省は何を考えているんでしょうねえ」とおっしゃった。たぶん、ゆとり教育へとシフトしたことを面白くないと思っていらっしゃのだと理解した。
面接を終え、実際に『おじさん的思考』の著者に会えたことをひどく喜びつつ、帰途に就いた。

2003年の春4月より、毎週火曜日の午後、4時間目の授業を終え、早めの給食を食べて浜松駅へと向かい、新幹線で神戸女学院大へと通う生活が始まった。
第1回は、先生が提示されたテーマを誰が担当するか決め、発表の日時を確認することが主な内容だった。その前に、ゼミでねらいとするところについての言及があった。
先生は、こう言われた。
「巷間で言われているように、確かに今の日本はあらゆる分野でシステム崩壊が起きつつある。それについて、言説は大きく二つに大別される。すべてが崩壊しつつあるのはいいことだとする説と、もう日本には未来がないとする説である。自分は、そのどちらにも与しない。でき得れば、そういう批評性の毒とも言うべきものを批評したい。すなわち、今の日本のシステム崩壊は、確実に滅びの道を辿っているのか、それとも、再生するために崩壊しているのかを見極めたい。もっと言うならば、日本のシステムの変化の兆候から、何が生まれるつつあるかということを、ていねいに腑分けしてみたい。」
一字一句、聞き漏らすまいと必死でノートを取った。

以来、学校行事等でどうしても行けない時は除いて、1年間通して神戸女学院大へ通った。
ゼミの時間は、ほんとうに充実した時間だった。他の人たちの発表や、先生のお話もうかがいながら、思考することについての愉しさを心ゆくまで味わうことができた。
ゼミが終わって帰る新幹線の車内では、その日のゼミで話し合われたことや、先生のお話をもう一度反芻する至福の時間だった。

そんなことを、内田先生の最終講義が終わった後のパーティーで、大学院内田ゼミ1期生代表として何かしゃべるようにと言われたときから、何となく思い出していた。
最終講義で、内田先生はヴォーリズの建築のことを例に出しながら、「学びの比喩」を「暗闇から明るみに出ること」、そうして「自分の実存をそこに捩じ込むようにして、ドアノブを回した人間だけが扉の向こうにあるすばらしい風景を目にすることができる」とおっしゃった。
大学院ゼミに通っていた頃の帰りの新幹線の車中が思い浮かんできた。車窓の外は闇だった。でも、自分の頭の中は明るい光で満たされていた。
「ああ、そういうことだったんだ」と、先生の最終講義でようやくそのことを知ることができた。
大学院内田ゼミには、きちんと「はじまり」と「おしまい」があった。

そのことを、自分のスピーチの最後に話そうとした。
週に一度の大学院内田ゼミからの帰りの新幹線の車中で過ごす時間は、ほんとうに幸せな、温かい幸福感に満ち溢れた時間でした、と。
そうして、自分は目の前にいる内田先生に導かれて、今まで自分が見たこともなかった風景を目にし、そこにいる人たちと出会うことができました、と。
でも、そうやって話そうとしたら、不意に涙が零れそうになった。
あとは、先生へのお礼の言葉を述べるだけで精一杯だった。

生涯忘れえぬ夜になった。