スーさん、師弟関係について考える

10月25日(月)

“ラカン老師は、ほとんどパリの全知識人およびウッドビー知識人がエコール・ノルマルの階段教室にひしめいたあの伝説的なセミネールの開講に当たって、こう言われた。
自身の問いに答えを出すのは弟子自身の仕事です。師は「説教壇の上から」出来合いの学問を教えるのではありません。師は、弟子が答えを見出す正にその時に答えを与えます。(「セミネールの開講」、『フロイトの技法論(上)』)”(@内田樹の研究室2006.10.18)

先週は、韓氏意拳の講習会に参加するため、大阪まで行っていた。その一部始終は前回の日記に書いた。すばらしい講習会だった。自分の身体の持つポテンシャルやそれを発揮する可能性に目を見張らされた。何より、指導してくださった守さんがたいへんに魅力的な方だった。
ぜひ浜松にも来ていただこうということで、具体的に日程を打ち合わせた。

浜松に帰って、浜松の支部の面々にそのお知らせをした。すばらしい会だから、ぜひとも多くの会員に参加してもらおうと思っていたのだ。もちろん、講習会の前夜は守さんを囲んでの小宴を予定していた。どころか、守さんと一緒に、講習会の当日は成田から機上の人となるカンキくんも、前日は浜松に途中下車して支部会員との交流を深める手筈になっていた。

ところが、その前夜祭の日の夜は、あいにく市中体連の反省会が入っていた。全市のほとんどの運動部活動顧問が一堂に会して、今年の納会を行うのである。希望参加であるが、熱心に指導している顧問は顔を出すのが慣例になっていた。自分も今まではほとんど毎年参加してきた。でも、合併を機に参加は取りやめるようになった。
この会、従来から会場の前半分の席を行政職と管理職が占め、顧問たちは後ろ半分の席に座らされて、会が始まるとまもなく、ほとんどの顧問が席を立って前半分の席に酌をして回る姿が常態となっていた。それに嫌気が差している顧問ももちろん多かったはずだ。合併で参加者の数が多くなれば、そのような状況がさらに大規模に展開されるのだ。とてもそんな会には出たくはなかった。それが参加を見合わせるようになった大きな理由だった。

しかし、年若い顧問は、なかなか参加を取りやめると言い出しにくいところもあるのであろう。そんな事情があったのかどうかは知らないが、いつもは何をするにもレスのいい支部の面々の、今回はややレスの悪さが気になった。
「なんだよ、一生懸命になるのって、麻雀するときだけかよ」と腹立たしかった。
支部連絡用に使っているfacebookのグループにもそんな旨いろいろとカキコしてみたのだが、あまり反応はなかった。「なーにが中体連反省会じゃ!」と一人で悪態をつきつつ、いつまでたってもレスのない会員へは「どーなってんの?」と思っていたのだった。

その間、支部長の険悪な雰囲気を感じた他の会員たちは、レスなし会員への働きかけをしてくれていた。そうして、少しずつその状況を知らせてくれた。
「どうやら、facebookの詳しい使用法がよくわかってないみたいです」とか、「使用しているPCが古くてうまくアクセスできないみたいです」とか。どうやら、支部会員たちの中には、ネットへのアクセスに問題を抱えている(使用法も含め)者がいるという情けない状況が明らかになった。もちろん、「やっぱり中体連に出ようかどうか迷っているみたいです」というのもあった。
それでも、「中体連の反省に出るよっか、守さんのお話を伺う方が断然いいのになあ」と残念に思っていた。

土曜日、神戸女学院めぐみ会静岡支部主催の公開講演会に内田先生が来浜され、講演をされた。演題は、「生き延びる力~成熟した社会を目指して」である。
会場であるグランドホテル浜松へ到着して駐車場に車を入れ、ちょっとした買い物をしようとホテル近くのコンビニへ向かった。と、正面のホテル内から出てきた人物がいた。ん?とよく見ると、何と内田先生だった。昨年の浜松講演会の時も、私と妻が会場へ到着すると同時に、内田先生を乗せたタクシーがちょうど到着されたことを思い出した。妻は、「やっぱり先生とはご縁があるわよねえ」と感心しきりだった。
受付を済ますと、何と自分たちの席は「関係者席」という特別席が用意されていることがわかった。めぐみ会静岡支部長さんのお話では、内田先生からその旨依頼があったそうだ。ありがたかった。

講演が始まった。AO入試のお話からだった。
途中、先生は夏目漱石の『虞美人草」を取り上げてこう言われた。
「漱石は、自分が大学の教員を辞め、文筆業に専念し始めて最初に書いた小説で、教育によって身に付けたものを自己利益に使ってはならない、ということを訴えました。自分が受けた高等教育は、社会に還元しなければならないということです。」
そうして、「公共性」について、「自分の手持ちのリソースがどんなに少なくても、そのリソースを自分よりも手持ちの少ない人に分けるべきだ」ということをお話になった。
はっと胸を突かれた。
追い打ちをかけるように、先生は、「自分のリソースは、先人たちからパスされたものだから、それはパスしなければならない」とおっしゃった。
そうして、「社会に、自分のリソースは若い人に分け与えたい、と思ってくれる大人が、7%~12%くらいはいてほしい。そうすれば日本社会は生き延びられるであろう」、とも。
極めつけは、以前もお聞きしたことがある、「台風の日に、稽古場である中学校の体育館に一人で畳を敷いて、誰も稽古に来ないであろう稽古場に座っていた」というお話であった。このお話は、以前にもお聞きしたことがあった。でも、同じ話でも、今回は全く別の話として自分の胸に迫ってきた。
ああ、オレは何をくだらんことを考えていたんだろう、と忸怩たる思いでいっぱいになった。
誰も稽古に来なくても、自分は稽古場に座っていればいいのだ。そうして、出し惜しみせずに、自分の手持ちのリソースを若い人たちに提供すればいいではないか、と。レスなし会員に腹など立てている場合ではなかったのだ。
師匠は、弟子の未熟さを見事に指摘してくださった。まさに、「弟子が答えを見出す正にその時に答えを与え」てくださったのだ。

講演会後の小宴は、「酔っぱらう回路が遮断されるみたい(麻酔がかかっているような感じ)」(@オノちゃん)に、ひたすら飲みかつ食べ、笑い、しゃべり、拝聴し、紹介し合う時間となった。2時間半は瞬く間に過ぎた。
午後8時過ぎ、神戸へと戻られる内田先生を改札口にてお送りし、まだ余韻を楽しみたい何人かと妻とで、次のお店へと向かったのだった。忘れ難い夜になった。

持つべきは、まさに師である。