スーさん、文学による呪鎮について考える

7月20日(火)

このところ、内田先生の著作を立て続けに読んでいる。
釈先生との共著『現代霊性論』(講談社)、『邪悪なものの鎮め方』(バジリコ)、さらには釈先生、名越先生との共著『現代人の祈り』(サンガ)。
どれもたいへんにおもしろく、教えられることの多い著作群だった。
中でも、『現代人の祈り』の第1・4章、「呪いと祝い』と題された釈先生との対談は、昨今のクレーマーや被害者意識に居着いている人たちとどう共生していくのかという、たいへん現代的な課題を取り上げたものとして興味深く読ませていただいた。

以下は、釈先生が“ネット内において匿名で発言したり、ハンドルネームを使って語ったりするのも、「呪いの図式」だと言える”と言われたことを受けて、「匿名で発信すること」についての内田先生のお話。
“匿名で発信することの一番怖いところは、自分の顔を隠すことによって、誰がしゃべっているかわからないから、無責任な発言をするようになるっていうことではないんです。もちろん、それも問題だけれど、もっと危険なのは、固有名を隠し、顔を隠したときに、その仮面が一気に公共性の仮象をまとい、あたかも数万人、何十万人の総意を代表しているかのように語りだすことです。”(28頁)
大切なところは、「数万人、何十万人の総意を代表して語りだす」のではなく、代表している「かのように」語りだすというところである。
“仮面の怖さというのは、人物が特定されないから無責任に攻撃的になれるということではなくて、仮面をかぶった人間は過剰な「自信」を持ってしまうということなんです。”(30頁)
「自信」にカギ括弧が付されているのは、この場合は、自分を信じることによる「自信」ではなく、「過信」と言ってよい類の「自信」という意味であろう。
そうして、そんな「自信」が「自ら正義感を代表している」という思いに裏打ちされると、その「正義感」の由来はどこかということを自らに問うことなく、ひたすらその「正義感」に居着くことで、負のエネルギーを充填されて「呪い」の世界に落ちていく。

さらに恐ろしいのは、その「呪い」が、実は自分自身にも呪いをかけているということに気づかないことだ。
“「人を呪わば穴二つ」というやつです。呪いは呪いを生み出します。負のスパイラルに陥るということですね。ある意味、「呪いの鉄則」と言えるかもしれません。”(釈先生、218頁)
この自分自身にかけられた呪いについて、内田先生は『邪悪なものの鎮め方』で、
“この世にはさまざまな種類の呪いがあるけれど、自分自分にかけて呪いは誰にも解除することができない”(150頁)
と述べられている。自分に祝福を贈らないかぎり、自らの呪いを解くことはできないのである。しかし、
“「自分を愛する」仕方を自然に身につけている人は少ない。それよりは権力や威信や財貨や知識や技芸によって、「他人から承認され、尊敬され、畏怖される」という迂回的なしかたでしか自分を愛することのできない人間の方がずっと多い。”(同書、269頁)
というのが実情だ。

では、どうすればいいのか。
もちろん、それはこれらの著作を読んでのお楽しみということであろうから詳しく述べることは控えたい。
釈先生が、應典院の秋田光彦住職に聞いた話としてご紹介された一節が、澱のように心の中に残っている。
“正義感の裏返しとしての恨みや呪い、なぜ世の中はこんなに腐っているんだ、なぜみんな正しい道を歩もうとしないんだ、そんな無垢な善意に潜む邪悪を暴走させてしまわない緩衝地帯としての文学、極端な信念や自分だけがわかっているという肥大した自我の持っていきどころとしての文学、そんなものはもうどこにもない”(『現代人の祈り』248頁)というお話である。

つい最近読んだ宮沢賢治の詩を思い出した。

「まっ白な石英の砂
音なく湛えるほんたうの水
もうわたくしは阿耨達池の白い渚に立ってゐる
砂がきしきし鳴ってゐる
わたくしはその一つまみをとって
そらの微光にしらべてみやう
すきとほる複六方錐
人の世界の石英安山岩か
流紋岩から来たやうである
わたくしは水際に下りて
水にふるえる手をひたす
  ……こいつは過冷却の水だ
    氷相当官なのだ……
いまわたくしのてのひらは
魚のやうに燐光を出し
波には赤い条がきらめく」(「阿耨達池幻想曲」、一部略)。

こんな美しい詩こそ、「緩衝地帯としての文学」となり得るのではないか。

賢治の生涯については、周知のとおりである。
25歳で稗貫郡稗貫農学校の教諭に就任の翌年、最愛の妹としが病気で亡くなる。30歳で稗貫郡稗貫農学校の教諭を退職、下根子桜で一人暮らしを始める。32歳で発病、その後も病気はよくならず、実家で亡くなる。享年38歳。
自らの信教への周囲の無理解や、妹の不条理な死など、その気になれば賢治はいくらでも呪いの言葉を吐けたことであろう。
しかし、彼は「予祝」を寿いだ。

「諸君よ
紺色の地平線が膨らみ高まるときに
諸君はその中に没することを欲するか
じつに諸君は此の地平線に於ける
あらゆる形の山岳でなければならぬ

宙宇は絶えずわれらによって変化する
誰が誰よりどうだとか
誰の仕事がどうしたとか
そんなことを言っているひまがあるか

新たな詩人よ
雲から光から嵐から
透明なエネルギーを得て
人と地球によるべき形を暗示せよ

新しい時代のコペルニクスよ
余りに重苦しい重力の法則から
この銀河系統を解き放て」(「生徒諸君に寄せる」より)

こういう時代だからこそ、かつての詩人や小説家の文学が再読されることによる「呪鎮」が要請されているのではあるまいか。もしもそれが一つの「イニシエーション」となるならば。
自らの呪縛への戒めを込めつつ。