スーさん、結婚式に出る

6月14日(月)

土曜日は、大学時代に所属していたクラブの先輩であるタニさんの結婚披露宴に参加するため、お隣の磐田市に住んでおられる同じくクラブ先輩のフジタさんと連れ立って西宮へ。

わたしが大学のクラブに入部したのは、タニさんによって決定づけられた。当時、浜松の田舎からやってきて、右も左もわからず構内をキョロキョロしながらうろついていたところに、「キミ、高校時代は何部に入ってた?」と声をかけてくれたのは、当時四回生のカメイ先輩だった。「テニスしてました」と答えたところ、「じゃ、中学時代は?」とさらに聞かれて、「ブラバンですけど」と答えたのが運の尽き、とたんに顔色が変わったカメイ先輩、「キ、キミ、すぐこっちへおいでよ」と連れていかれたのが応援団の団室。中に入って何を聞かされたのかはほとんど覚えていない。「よかったら、また来てね」と言われてその日は帰った。
これで、翌日以降に再び団室へと行かなければ、以後「虎の穴」のようなクラブに四年間も所属することはなかったのである。
が、下宿生で同じ高校からの友人もなく、何もすることのなかった身は、何かしら大学に繋がれるものを求めていたのだろう、そのままふらふらと再び団室を訪れてしまったのであった。中にいたのが三回生のタニさんだった。まず、その髪型に居着いてしまった。男性なのに、おかっぱ頭だったのだ。そうして、初対面なのに、すごく気さくにいろんな話をしてくれた。極めつけは、「じゃ、メシ食いに行こや」と促され、団室のすぐ階下にあった生協の食堂で、カレーライスを奢ってくださったのだ。感激した。「よし、このクラブに入ろう」と決意した。つまり、タニさんのカレーライスによって、自分はそのクラブに所属することを決定めたのだった。

クラブの練習は厳しかった。ほとんど休みがなかった。ま、下宿生で特にすることもなかったし、大学のクラブなのだからこのくらいは練習するのだろうと思っていたこともあって、最初のうちはそんなにきついとは思っていなかった。
ところが、だんだんとクラブ以外にもいろんな付き合いが出来てくると、あまりにクラブに時間をとられることが苦痛になってきた。それに、同じパートの先輩にもちょっと気の合わない人がいて、何となくクラブへ行くのも気が重くなってきた。
そんなある日、ついにクラブを無断欠席した。友人の下宿でうだうだしていたところへ、同じパートの先輩たちがやってきた。「とにかく戻って来い」という厳しい指導を受け、しぶしぶクラブに復帰させられた。そんな状況で、いちばん話を聞いてくださったのがタニさんだった。

タニさんは、とにかくこのクラブに非常な愛着を持っておられた。もちろん、誰にも負けない誇りも。そうして、昔のクラブの伝説的なOBのことをよく知っておられた。そんな話をよく聞かされた。そうやってお話を伺っているうちに、いつしか自分もそんな伝説のプレーヤーになりたいと思うようになってきた。
お酒もよく飲んだ。タニさんは、いろんな飲み屋さんをよく知っていた。連れられてタニさん行きつけのお店へもよく通った。もちろん、学生であったから、下宿の部屋で安ウィスキーを飲んだりすることの方が多かったが。

タニさんは、大学を卒業したあともよくクラブに顔を出してくださった。そうして、就職した先の仕事の厳しさなどもいろいろと話してくれた。
忘れられないのは、タニさんの代が中心になって、冬の竹野町(兵庫県)の民宿へカニすきを食べに行った小旅行。ちょうど十人で行ったのだが、その夜はみんなでお銚子をちょうど100本空けた。終わって海岸端へ出て、みんなで雪合戦をした。お腹が痛くなるほどよく笑った。ほんとうに楽しかった。

わたしが大学を卒業して浜松へ戻ってからも、お付き合いが途絶えることはなかった。わたしの結婚式にはもちろん来ていただいたし、夏休みにはこちらから香住(兵庫)へ海水浴に行ったりした。愛車のBMWスーパーバイクで何度か浜松にも来られて、わたしの家に泊まったりしたこともあった。
その後、就職先を辞めて大学へと戻り、社会福祉を勉強し直されていた時期もあった。さらには、兵庫県の但馬に知的障害者のための施設を作るということで、しばらく村岡町にお住まいされていた(諸事情で施設を作ることはままならなかったが)こともあった。
村岡町から戻られてからは、同じくクラブの先輩の紹介で、広島の専門学校で社会福祉を教えられる時期を経て、今の社会福祉施設に職を奉じられたのである。
この間、タニさんにどんな出会いがあったのかは寡聞にして知らない。お会いする度に、「結婚しようという気はあるんやけどなあ」といつも話されていたが、良縁には恵まれずに今日に至っていた。

そのタニさんが結婚されるという通知をいただいた。
びっくりしたが、よかったなあという気持ちでいっぱいになった。昨今、「熟年離婚」はよく聞くけれど、「熟年結婚」はあまり聞いたことがない。でも、いいではないか。結婚に年齢などいっさい関係はないのだ。

その結婚式と披露宴。式は大学会館のチャペル、披露宴はレセプションホール。100名を軽く超える人たちが集まった。懐かしい顔ぶればかりだった。「オマエ、誰や?」と言いつつも、すぐに昔の顔が思い浮かんできて、30年以上を経た時間は瞬時に雲散霧消していった。みんな昔のままだった。と言うか、こういう場だからこそ、昔の自分に戻ったのであろうと思う。
終了後、大学に勤務する後輩のホソミくんに案内されて構内を散策した。チャペルから中央芝生を通って時計台を見上げた。学生時代に戻ったかのような気持ちになった。そのまま、かつては書籍部や業者食堂があったところ、通称「銀座通り」を歩く。
野球部やアメリカンフットボール部の練習会場だったグラウンドには講義棟が建てられていた。体育館前の体育会のモットーが書かれた石碑は昔のままだった。無性に懐かしかった。
こんな機会を与えてくださったタニさんには、ほんとうに感謝の言葉もない。

タニさん、ほんとうにおめでとうございました。
いつまでもお幸せに!