スーさん、書店について考える

3月8日(月)

恵みの雨。
と思いきや、土曜日は朝から市のシード校決定戦のために市営テニスコートへ。
雨ならテニスはできないのが普通だ。でも、市営コートには屋根付きコートが4面ある。出場校が限定されていれば、4面でもそれなりに試合は消化できる。
今回は、雨なら午前と午後を男女で分けて、やれるところまで試合を行うとの事前連絡が入っていた。
会場に行くと、既に主将が組み合わせ抽選を済ませて対戦相手も決まっていた。ジュニアのファームを持つ強豪校の一つだった。1試合やるだけで帰れそうだと思った。選手たちには試合に臨むにあたっての具体的な指示をして待機に入った。

このシード校決定戦、今年度から始まった試みであるが、前にも書いたとおりわざわざ時間を労力をかけて行うほどのことはないとの感を強くしている。
特に今回は、本戦の組み合わせを抽選で行うようにしたことで、その思いは確信に変わったと言ってよい。
もともとは、実力校同士が市内大会で潰し合いをせず、それなりの順位で順当に上位大会に出場できるよう配慮したいとの意図で始めたと思うのだが、地区予選を勝ち抜いた学校が対戦する本戦で、その組み合わせをくじ引きにしてしまっては何にもならないのだ。
運営部の諸君には、「一度始めたことはしばらく続けてみないと」などと官僚的な発想は捨て、ぜひ再考をお願いしたいところだ。

試合は、案の定本校の惨敗で終わった。まあ、冷静に実力を勘案すれば当然の結果であったろう。と言うか、いろいろと対戦校についての情報収集ができたという意味では、対戦はいい機会となった。でも、それだけである。
ふだんの練習ぶりを見ていれば、少なくとも自校の技術的なレベルがどの程度のものかということくらいは重々承知している。だから、試合結果もほとんど予想に違わないものとなる。
そもそも、年明けから春先にかけては、じっくり時間をかけて技術的なレベルアップを図る時期である。試合なんぞしている暇はないのだ。

哺時より、2週間ぶりの支部小宴と例会。
今回は、いつも正月以外にはほとんど参加したことがない自称「百獣の王」が参戦した。
やる前までは、「みんな、点棒持って集合してもらおうかい」と嘯いていたが、ほとんど和了ることもなくマイナスに沈んだ。奢れるものも久しからず。「百獣の王」は、飼育された猫のようにおとなしかった。

明けて日曜日は、天気予報どおりに朝から雨。
予定では県選抜チームを率いて三島高にて一緒に練習をさせていただく予定になっていたのだが、週間天気予の雨予報もあって、当の三島高ソフトテニス部監督であるイナムラ先生とも相談して、先週水曜日には早々と中止を決定していたため、完全に一日オフとなった。
うれしい。もちろん、朝から春炬燵に入ってひたすら読書。
きっと、退職後はこういう生活になるような気がする。早くそうなりたいものだ。

前日の小宴の際、自宅近くにあるスーパー銭湯によく行くと言っていたケーイチくんから、そこの割引券をもらったので、「もし明日行くんなら電話してよ」と約しておいたところ、ちょうど昼前に件のケーイチくんから、「2時くらいにどうですかあ」と電話が入った。一も二もない。昼食後のまったりした時間にお風呂に入るのも乙なものだ。
きっかり2時に駐車場で待ち合わせて入場。ワンコイン(500円)で8種のお風呂が楽しめるとの触れ込みだ。日曜の午後ということで混んでいるのではと予想していたが、思いの外空いていた。おかげで、ゆったりと時間をかけて湯に浸かることができた。サウナにも入ったし、雨中の露天風呂も楽しんだ。コストパフォーマンスはかなり高いと思った。

ほっこりした気分で帰宅して再び春炬燵に入ると、程なく深い眠りに落ちていった。目覚めると夕刻。急に思い立って、豊橋の精文館書店まで出かけることにした。
目的は、内田先生も書評を書かれ、アオヤマ姉御も大のオススメだった『身体感覚で「論語」を読みなおす』(安田登/春秋社)と、鷲田先生の『普通をだれも教えてくれない』(ちくま学芸文庫)。
スーパー銭湯の帰り、自宅近くの書店を数軒回ってみたのだが、ともに見出すことができなかった2冊である。

ただでさえ雨で薄暗いところへ、ちょうど日暮れ時ということもあって山のシルエットがふだんとは違う風景のように見える道を一路豊橋へ。BGMはマーラー。5番のアダージェットと雨の浜名湖畔の景色はまことによくマッチする。
いつもの駐車場にプリウスを入れて精文館書店へ。もちろん、目的の2冊もゲットすることができた。
でも、どうして浜松にはこういう書店がないのだろう。売れ筋の本を置かないと経営が苦しいということはあるかもしれない。
前にも書いたが、「本屋という場所にわたしたちが誘われるのは、そう意識していようといまいと、本屋の本棚の本がひそめる理想主義という秘密に誘われ」(『本という不思議』みすず書房)るからなのだ。 いくら本をたくさん置いていようが、その棚に「理想主義」を感じさせない配架の書店は、そもそも「書店」というものが持つ基本的な機能を果たしていないのである。当然、それは配架する本の選択にもあらわれる。
いや、その街の書店が文化的関心のバロメーターであるとするなら、少なくとも浜松は「人文的関心が極めて低い地域」と結論づけられるであろう。改善のために自分ができることはないのだろうか。
ちょうどNHK教育TVでやっていた「N響アワー」でのチャイコフスキーの4番のシンフォニーを聴きながら、そんなとりとめのないことをつらつらと考えていた。