スーさん、戦争について考える

9月16日(水)

ほぼ1ヶ月前の終戦記念日あたりから、ずっと戦争関連の本を読んでいた。
『本土決戦幻想 オリンピック作戦編』(保阪正康/毎日新聞社)
『ノモンハン事件』(小林英夫/平凡社新書)
『大空のサムライ』(坂井三郎/光人社NF文庫)
の3冊である。

『本土決戦幻想』と『ノモンハン事件』の2冊には、それぞれの著者に共通する思いが随所に顔を出している。すなわち、「当時の指導者たちは、どうしてこんな愚にもつかない作戦を考え出し、なおかつ実行しようとしたのだろうか」ということと、「多くの将兵の命を犠牲にしたにもかかわらず、肝心の作戦実施を命じた指導者たちは、その後どう責任を全うしたか」ということである。

『本土決戦幻想』によれば、もしも日本が8月15日に降伏しなかった場合、米軍は11月1日を期して南九州上陸作戦(オリンピック作戦)を行う予定だったという。
それは、次のように進行する。まず、上陸作戦に先立ち、上陸支援ための艦砲射撃や空母艦載機による爆撃が実施される。次に、南九州の三方向からほぼ同時に上陸が開始される。上陸地点は、「志布志湾沿岸」、「吹上浜」、「宮崎沿岸」である。そうして、それぞれに内陸部へと向かいながら飛行場を制圧、南進してくる日本軍を迎え撃つ。
対する日本軍はどのような対応をするのだろうか。当時の陸軍参謀本部第一(作戦)部長であった宮崎周一中将の言葉が紹介されている。
「作戦は連続不断の攻勢。戦法は航空全機特攻、水上、水中すべて特攻、戦車に対して特攻、地上戦闘だけが特攻を避けられよういわれはない」(66~67頁)
自分は戦争の作戦指導なるものがいかなるものかは知らない。それでも、この宮崎中将の言が、とても「作戦」と呼べるような代物ではないということくらいはわかる。

特攻などと簡単に言うが、そもそも生還を前提としない計画を「作戦」と呼称してしかるべきであろうか。そんな中、第131航空隊の隊長であった美濃部正氏の言葉は重い。「自らの命を他人に命じられて失うことはおかしいということです。」生還を期すという前提の命令でなければ、指揮官といえども下すことは許されない、とも話していたという。
彼は、昭和20年2月の連合艦隊司令部作戦会議の席上、沖縄戦では全ての組織を特攻編制に切り替えるという軍令部参謀からの報告に、ただ一人手を挙げて反対したという。もちろん、その抗命は死を賭してのものだった。
どうして彼のような発言が大勢にならなかったのだろうか。

命じられて死地に赴いた兵たちも、その命を捧げることについて疑義を抱いていた者もいたに違いない。現に、昭和20年5月に特攻出撃した白菊特攻隊機から、「海軍の馬鹿野郎」と打電して突入した傍受電があったということも紹介されている。そうだろうと思う。
戦後書かれた徳富蘇峰の『軍人精神の堕落』の中の一節が悲しい。「死を見ること帰するが如きは、ただ特攻隊の青年輩ばかりで、その上の上長官等は、全く別様の生活を為し、ただ口の先にて、若い者を煽て上げ、煽り上げ、彼らを死地に追いやるばかりで、自分達は日毎夜毎に、酒池肉林の暮しを為し、いざとなれば、危険を後ろに、皆安全地帯に、逃げ帰って仕舞ったということである。」(213頁)
これでは救われない。

ノモンハン事件は、太平洋戦争に先立つこと2年前に起きた。詳細は省くが、この戦闘(第2次ノモンハン事件)で日本軍の死傷者は1万人以上、消耗率は7割を超えてほぼ全滅状態に陥った。
作戦を主に立案したといわれるのは辻政信参謀。彼はその後、終戦をバンコクで迎えると僧侶に変装して重慶に潜伏、1948年に上海から帰国し、翌年の戦犯指定解除後は衆議院議員に立候補して当選、59年以降は参議院に鞍替えし、61年東南アジア視察旅行中に失踪してしまう。要は、戦後までぬけぬけと生き抜いたばかりでなく、何と国会議員にまでなっていたのだ。

それにしても、一参謀がどうして万余の軍団を動かす作戦を立案できたのか。
『ノモンハン事件』の筆者は以下のように推断する。
「トップ以下、組織構成員の誰もが先の状況を読めない場合に(下克上とも見える現象が)発生しやすい。ポジションと関係なく、強力な主張をする人間の声が主流となるのである。」(56頁)
似たようなことが、(今回ではなく)前回の衆議院選でも起こったような気がする。

それにも増して腹立たしいのは、件の事件の信賞必罰である。
該当の第6軍司令官と関東軍司令官は、十分な下賜金を受けての予備役編入。関東軍参謀長は本部付を経て予備役に、作戦課長も事件直後に本部付となってその後戦車学校付に。現場の作戦主任は歩兵学校付、件の辻は第11軍司令部付で転出した。いずれも、「彼らは、たしかにお咎めを受けたことには間違いないが、それは(…)すこぶる軽微であった。」(203頁)
そうして、かれらのスケープゴートにされたのが、現場の指揮官たちであった。いずれも、上司に累が及ぶことなく「責任」の所在を明確にするために「自決」させられたのである。あっていい話ではない。
これで話は終わらない。
軽微な「お咎め」で終わった高官たちは、その後「功成り名を遂げる」のである。
まず辻とともに作戦を立案した服部は、「参謀本部作戦課長に返り咲き、辻もその下で参謀本部作戦課兵站班長として現役に復帰した。両者は、アジア太平洋戦争を緒戦から指揮し、ガダルカナル島占領作戦を展開して、多くの将兵を飢餓のなかに追い込むことになる。」(205頁)
さらに、「服部は戦後、復員庁にあって史実調査部長として活動、GHQのウイロビー少将のもとで日本の再軍備に従事する。その功もあって、警察予備隊の初代幕僚長に擬されたこともある。」(206頁)
どうしてこうなるのだろう。

上長官等の愚昧さに比して、実際に現場で戦った一人である坂井三郎の戦記『大空のサムライ』は、特に太平洋戦争末期は苦しい戦いの連続であったろうが、それでも読んでいて得も言われぬ清涼感が感じられる。なぜだろう。
硫黄島の空戦など、残り1機となったエンジンもろくに回らない零戦に乗り込んで、単身敵機の群がる中に飛び出していく。こうやって、最前線の兵は頑張っていたのだ。
坂井は、以下のように書いている。
「私たちと同じ人間であるはずの一人の人間が、指揮官という立場に立つと、まるで将棋の駒をうごかすように、他の人間の生命を無造作に死に投げ込むことができる-そういった軍隊の組織が持つ不条理が、慣れきった日常の通念を突きやぶって、いまさらのように心を疼かせる。」(602頁)
やはり、坂井も感じていたのだ。上官のアホさ加減を。

結論。
ノモンハン事件の作戦指導者たちも、終戦時の作戦指導者たちも、当時はエリートしか入校を許されなかった陸軍士官学校-陸大、または海軍兵学校-海大の出身者たちで、いわば当時の日本の「ベスト・アンド・ブライテスト」たちであった。
彼らの特徴は何か。「自分は誤たない」という強烈な自負(過信)である。だから反省がない。
『本土決戦幻想』中には、昭和20年8月16日の大佛次郎の日記が紹介されている。この言葉に、戦争指導者たちの過ちのほとんどが言い尽くされていると思う。
「驚いてよいことは軍人が一番作戦について責任を感ぜず、不臣の罪を知らざるが如く見えることである。(略)戦争に負けたのは自分たちのせいだということは誰も考えない。悲憤慷慨して自分はまだ闘う気でいるだけのことである。(…)不臣の罪を自覚し死を以て謝罪すべきものは数知れぬわけだがその連中はただ沈黙している。東條など何をしているのかと思う。レイテ、ルソン、硫黄島、沖縄の失策を現地軍の玉砕で申訳が立つように考えているのなら死者に申訳ない話である。人間中最も卑怯なのが彼らなのだ」(165頁)
それとは裏腹に、現場に即して蒙昧な作戦を精一杯実現しようとしたのは、下士官以下の兵たちであった。

政権が交代した。これで少しは官僚制の弊害も減るのであろうか。かつて、官僚主義に陥った帝国陸海軍指導者たちは、ために多くの将兵を犠牲にした。その反省なしに、失われた命の鎮魂はなされまい。
しかし、太平洋戦争末期のいかにもヒステリックな作戦指導は、私たちも同様の場面に遭遇した際には同様になるかもしれないという、自分自身への問いかけこそなされるべきなのだと思う。