スーさん、読書する

5月26日(火)

日曜日は、そろそろ部活動の指導に出かけようかという頃になって突然雨が音を立てて降り出した。
これではテニスコートは使用できない。主将のところに練習中止の連絡を入れ、このところ雨の日には定番になってきた蟄居を決め込む。
居間の炬燵に掛けっぱなしだった炬燵布団(これが昼寝用にはちょうどよい)を片付け、炬燵下の敷物を取り除いて居間全体に掃除機をかける。
部屋が何となくさっぱりとしたところで、座椅子に座って読書。

特に深い意図など何もないのだけれど、「とりあえず今年はこの本を少しずつ読もう」と決めた二冊のうちの一冊、ハイデガーの『存在と時間』(「世界の名著」中央公論社/原佑・渡邊二郎訳)。
この本、学生時代に大学の生協書籍部で購入したまま、「いつかは読もう」と思いつつ、既に四半世紀以上を経過した函入りの本である。
そんな本をなぜ読もうと思うに至ったか。
きっかけは、mixiお仲間の「まっちゃん」さん(北海道在住)が、いつぞやの日記に紹介されていたことであった。
以下、その日記をご紹介させていただく(もちろん、ご本人の承諾を得ております)。

「鳥肌が立ってばかり。
身体中が震える心地。
魅力的なのも頷ける。

先駆的決意性、死の現存在分析のあたりは白眉か。
「語り」の「沈黙」や「聴くこと(聞く、では誤訳だろう)」
も今の仕事上、深く思わせられる部分が大きい。

「君はどうか、頑張れよ」
っていうエールのオハナシが全てだろう。
要するに。
多分。
自分は『存在と時間』をそう読む。
頑張ろう、という気に強烈にさせられる。
ハイデガー、ありがとうね、という心地。」

ね?読んでみたくなるでしょ?

もちろん、手前程度の読解力ではすらすらと読み進めることは困難である。したがって、全83節を「毎日少なくとも1節は読む」と決めて読むことにしている(読まない日もあります、もちろん)。
で、ようやく第15節まで。
文体が文体なので、つい肩に力が入ってしまうのだけれど、あんまりそうやって読まない方がいいのかもしれない。でも、集中して読まないとすぐに眠くなってしまうのは事実。
ある程度読んだところで、すぐに他の本(も少し読みやすいもの)に切り替えることにする。

「まっちゃん」さんの紹介では、他にセネカの著作(『ルキリウスへの手紙』近代文芸社)も購入した(未読、お楽しみは後に取っておかないと)。
「今年何としても読むと決めた二冊」のうちのもう一冊は、もちろん内田先生が訳出された『困難な自由』である。巷間、「読むのが困難な」と形容されたりしているが、ハイデガーを読み終えたら取りかかるつもりである。

そうそう、タイトルに惹かれて購入した、『『こころ』は本当に名作か』(小谷野敦/新潮新書)の中で、スウィフトの『ガリヴァー旅行記』が絶賛されていた。となると、読んでみたくなる。すぐに岩波文庫版を購入して読み始めた。確かにおもしろい。「ラピュタ」がこの本の中に出てくるということを初めて知った。今や、「寝る前に読む本」の筆頭である。

同じく、新潮新書の『新潮文庫 20世紀の100冊』(関川夏央)もよい。何より、選者がいい。以前、同著者による『本よみの虫干し』(岩波新書)で紹介されていた『ある明治人の記録』(中公新書)は、昨年読んだ本の中でも、年間ベストに入るほどのおもしろさであった。となれば、「今度はどんな本が紹介されているのだろう?」と、とても見過ごしにはできなくなってしまうのである。
この新書、見開き2頁に1冊の割合で、計100冊が紹介されている。限られた字数で本の紹介をすることはかなり難しいのではと思われるのだが、そこが読ませどころである。つい、「おお、これは読まねば!」という気持ちにさせられる本が次々と出てくる。
『ガリヴァー旅行記』もそうだが、昔から「名作」とされている本も、意外と読んでないということに気づかされる。こういうブックガイドを読むのは、ほんとうに楽しい。

そうやって、「あれも読まねば、これも読まねば」としているうちに、「積ん読」の本はどんどんたまってゆく。それでいいのである。そんな「積ん読本」の背表紙を眺めているだけでも、「次はどの本を読もうかな」と、まるで「今日はビールにしようか、それとも日本酒を冷やで、いやいやイタリアンにはワインだよ、違うってば芋焼酎の水割りさ」というわくわくした気持ちになるからである。

ああ、早く退職して、毎日朝から本を読める生活に浸りたい。