スーさん、JAF会員でよかった

5月7日(木)

連休が終わった。
今年の連休は、JAFに始まりJAFに終わった連休であった。
以下、日を追って出来事を記しておきたい。

1日(金)
翌日からの滋賀遠征に備えて、弟のオデッセイを起動しようとしたところ、キーを差し込んでも全く何の反応もない。父に確認すると、「車検は通したし、バッテリーは新しいはずだぞ」と宣う。充電器やブースターも試してみたが、かからない。仕方がないので、JAFに応援を頼んだ。程なく、ご存じブルーのレッカー車が登場、あれこれ調整ののちめでたくエンジンは始動することができた。どうやら、積載バッテリーが完全に漏電してしまっていたらしい。「しかも、この手のバッテリーって、なかなか急速充電しないんすよ。だけど、一晩中エンジン掛けっぱなしにもできないでしょうから、とりあえず一度バッテリーを取り外して充電器で一晩充電して、明日の出発前に搭載してみるしかないすねえ」というお話だった。「で、ダメだったら、も一度連絡してください」と。
言われるとおりにするしかない。その晩は、夢に何度もバッテリーを積み降ろしする自分の姿が出てきた。

2日(土)
ハッと目が覚めると午前4時。出発まで2時間だ。車庫へと出向いて、充電しておいたバッテリーの電圧を充電器で確認する。かなり回復はしていたけれども、まだ十分ではなかった。充電器から外し、オデッセイのエンジンルームへ設置し直す。プラグをつないで、エンジンキーを差し込む。「どうかかかりますように」と祈り、「エイヤッ!」とエンジンキーを回した。「グ、グォン!」とエンジンは始動した。ああ、よかったと安堵した。急いで支度をして、集合場所へ。

例の「高速道路どこまでも千円」の影響が心配だった。案の定、東名浜松西インターに入ったとたん、のろのろ運転であった。「先が思いやられるよなあ」と思っていたが、三ヶ日インターを過ぎたあたりから走り始めた。ところが、音羽蒲郡付近で事故が発生したらしい。音羽蒲郡インターに近づくにつれ、渋滞がひどくなってきた。迷うことなく音羽蒲郡インターで降り、国道1号を走る。
そのまま岡崎インターから再び東名に合流、豊田JCTから伊勢湾岸道へと入る。その間、何度も交通情報は四日市JCT付近の渋滞を告げていた。はたして、湾岸桑名インターを過ぎた辺りから渋滞が始まった。時間的にさらに渋滞はひどくなると思ったので、みえ川越インターで伊勢湾岸道を降り、国道23号を走ることにした。
23号線は混んでいた。四日市市内まではのろのろ運転が続く。そこを何とかやり過ごし、四日市市内を抜けて、四日市インターから東名阪道に入る。鈴鹿までは混んでいたが、亀山JCTから新名神に入ると嘘のように車が少なくなった。土山PAで小休止、甲南インターで新名神を降り、そのまま試合会場である甲南中へ。会場到着は午前10時前。凡そ3時間半余のドライブであった。上出来であったと思う。
会場到着を、後続のオノちゃん・ヨッシー・シンムラくんにメールすると、彼らはまだ四日市インター辺りで渋滞にはまっているとの返信があった。どうやら、「どこまでも千円」にとらわれて、高速道を降りる判断が鈍ったようだった。「時は金なり、って言うだろ?いざって時は金をケチっちゃダメなんだよ」と説教を垂れて一人悦に入るのであった。

この研修会、例年と違って、今年は初日の午後から団体戦の予選リーグ、2日目が団体戦の決勝トーナメントと個人戦の予選リーグ、最終日が個人戦の決勝トーナメントという例夏の「浜松オープン形式」で実施されることになっていた。
その予選リーグ、監督が昼食に行って、主催者であるデグチ先生やらと久闊を叙してなどいる間に2試合が行われ、いきなり2敗していた。どうやら、戦闘モードになる前にやられてしまったようだ。気合いを入れ直してリーグ最終戦に臨ませる。これは勝つことができた。結果、1勝2敗が3チームとなったが、我らは得失ゲームでリーグ3位となることが決まった。のんびり昼食を取っていた監督の責任である。

試合終了後、この日の宿である水口町の旅館へ。宿に到着してオデッセイのエンジンを切ったのだが、車をやや前寄りに駐車させてしまったので、駐車し直そうと思ってエンジンキーを回すと、何とエンジンがかからない。午前4時過ぎにエンジンを始動してから一度もエンジンを止めていなかったから、バッテリーにはもう十分に充電されたと思い込んでいたのだが、どうやら予想以上にバッテリーの状態は悪いようだった。仕方がないので、再びJAFにご登場願うことに。電圧等を見てもらったのだが、それなりには回復していることがわかった。「も一度エンジンかけてみてもらえます?」と言われるままに、おそるおそるエンジンキーを回すと、何と一発で始動した。「なーんだ、時間おいてかければかかったってことなんですね」と言うと、「うーん、そんな簡単なものでもないような気もしますけど」と言いつつ、「とにかく明日もかからなかったら連絡ください」と言い残してブルーのレッカー車は帰って行った。車に乗るなら、JAFの会員になるべきだと強く思った。

3日(日)
早朝、「南無三!」と祈りつつエンジンキーを回す。かかった!よかった。どうやら、このままいけそうな気がしてきた。
さて、試合は午前中が予選3,4位チームによる「研修トーナメント」。こちらは、順調に勝ち上がって優勝した。できれば、上位トーナメントに入って、実力校と対戦したかったところだ。
午後は、個人戦の予選リーグ。3ペア中2ペアが全勝でリーグ1位、残りの1ペアが1勝1敗で2位という結果であった。よく頑張ったと思う。試合に慣れてきたということもあると思われた。

この日の夜は、参加しているチームのほぼ全員の指導者が集まって懇親会。少しずつだが、若い指導者たちが増えているような気がした。いいことである。彼らこそ、かようなソフトテニス指導者の集まりを次代に継いでいく貴重な人材である。きちんと伝えるべきことを伝えておかなければならない。自分も、そういう年回りになったということを自覚させられた懇親会であった。

4日(月)
最終日。個人戦のトーナメントは、予選の順位別に行われた。さすがに1位トーナメントは簡単には勝たせてもらえない。2ペアとも初戦で敗退。2位トーナメントの1ペアも初戦で敗退して、昼過ぎにはもういつでも帰還できる状態となった。
シンムラくんとこもきれいに敗退して帰れる状態となったので、「んじゃ、一緒に帰ろっか」ということになり、主催者の一人であるデグチ先生に新名神の甲南インター入口付近まで案内していただき、お礼を言って滋賀県を後にする。

そのまま新名神を亀山JCTまで走ると、道路情報は「東名阪道は亀山インターから四日市インターまで渋滞しています」と告げていた。すかさず亀山インターから国道1号線へ。こちらはインター付近こそ混んでいたが、そこを過ぎると四日市まですいすいと走れた。そのまま23号線を走って、みえ川越インターから伊勢湾岸道へと入る。さすがに東名との合流点である豊田JCTは渋滞していたが、そこを過ぎると渋滞はなかった。行きとほぼ同様の3時間半余で浜松に到着する。同行したシンムラくんも、「いやあ、おかげで早く帰れました」と、たいそうな喜びようであった。
得た教訓。「高速道ずっと千円なんだけど、混んだら下道走るのよ」

5日(火)
朝から雨。蟄居。
途中、車庫の樋から雨水が漏れるところを、近くのホームセンターに材料を買い出しに行って補修。
午後は読書。2冊読了。雨の日は読書に限る。
そうそう、今年は中島敦の生誕100年とのこと。この日が誕生日であった。
高校時代に読んで、不肖「オレのことが書いてある」と思った『山月記』。何度読み返したかわからない。
そして『李陵』。冒頭文、「漢の武帝の天漢二年秋九月、騎都尉・李陵は歩卒五千を率い、辺塞遮虜鄣を発して北へ向かった。阿爾泰山脈の東南端が戈壁沙漠に没せんとする辺の磽确たる丘陵地帯を縫って北行すること三十日。朔風は戎衣を吹いて寒く、いかにも万里孤軍来たるの感が深い。」何度も何度も読んで諳んじた。
さらに、『名人伝』。老紀昌が、目にした器具の名称と用途を知人に尋ねる場面での、その知人の言葉、「ああ、夫子が、―古今無双の射の名人たる夫子が、弓を忘れ果てられたとや?ああ、弓という名も、その使い途も!」
静かに味わいながら故人の遺徳を偲ぶ。

6日(水)
不肖の妻も仕事が休みであった。「んじゃ、どっか近くの温泉にでも行こっか」ということになり、ネットであれやこれやと検索の末、愛知県北設楽郡にある「とうえい温泉」まで出張ることに。
北設楽郡と言っても、浜松からは車で凡そ1時間の余。ドライブするにはちょうどいい距離である。
この温泉、なかなかであった。何より、露天風呂が充実していた。内も、サウナあり、ジャグジーあり、寝湯あり、ハーブ湯ありと、かなりの充実度であった。妻もたいそう満足したらしく、湯上がり後にスタンプカードを所望したほどだった。
昼食もそこで食べようと思っていたのだが、かなり混雑していたので、「じゃあ帰り道にどっかで食べてこ」とプリウスのところへ戻ると、心なしか左後輪の空気が抜けているように見えた。触ってみると、やはり空気が抜けている。「あちゃー、パンクしたみたいだよ」と言いつつ、他のタイヤも見てみると、どうも右前輪の空気も少ないような気がしてきた。
とりあえず、近くのGSまで走るにしても、スペアタイヤに交換しないといけない。どうしようかと思案すること暫し。「そうだ、JAFに頼んじゃおう!」と思いついた。もう、車のことで困ったらJAFなのだ。すぐに電話してみた。#8139。「プリウスですよねえ。スペアタイヤ積んでます?」と尋ねてきた。「え?確認してないけど、積んでると思いますよ」と答えたが、自信はなかった。「わかりました。かなり山の中なので、ウチと提携してる自動車屋さんに行ってもらうことにしますから」との返事だった。
ちょうど空いてきた食堂で昼食を取る程に、見慣れたブルーのレッカー車ではなく、普通の軽自動車に乗った人がやってきた。「JAFに言われたんですけど、この車ってスペアタイヤないんですか?」と言うので、デッキのアンダートレイを開けてみると、はたして!スペアタイヤは入っていなかった。代わりに、パンク補修キットとコンプレッサーが入っていた。やってきた人も、「やっぱ、これで応急処置して修理できるところまで走るんだねえ」と感心したように見ている。「でも、そんな面倒なことするより、パンクしたタイヤをウチで直して、またここで付ければいいですよねえ」と仰るので、「ハ、ハイ、それでいいと思います」とお願いした。
右前輪については、そのコンプレッサーで空気を入れてみた。こちらは、単に空気が少なくなっていただけだった。安心した。そのまま、パンクの修理が終わったタイヤを装着して、無事帰途に就く。

車に乗る人は、須くJAF会員になるべきである。
そう確信した連休であった。