スーさん、突然バレエが見たくなる

1月26日(月)

先週の火曜日、mixi仲間のお二人が奇しくも同じ内容の日記を書かれていた。
「ギエムのボレロ」についてである。

お一人はえこまさん。
何と、チケットが入手できなかったのにもかかわらず、そうして当日券があるかどうかもわからないのに、会場まで行かれたそうだ。
以下は、そのえこまさんの日記(http://d.hatena.ne.jp/eco1/20090119/p1)より。
“長蛇の列に並んでいよいよ係員に声をかけられて「すみません、私、予約をしてなくて…当日券はあるでしょうか」と聞くと「申し訳ありませんすでに完売致しております」とのこと。どうしても観たいんですが…と食い下がる私に「一応大ホール前の窓口で当日券は扱っていたのですが、すぐに売り切れまして…」と言葉を申し訳なさそうに濁された。開演一時間前では遅かったか…。
(…)大ホール前のインフォメーションには「当日券は好評につき完売致しました!」と張り紙がある。
それでも不思議と落ち着いていてめげない私。
売り切れの張り紙があるにもかかわらず、誰も並んでいないガラ空きのインフォメーションのおねえさんに「すみませんが、当日券ないでしょうか…例えばキャンセルとか…」と聞くとなんとなんと奇跡の一枚があったのでした。”
でも、そういうことってあるんだろうか。えこまさんの思いに、神さまがチケットを恵んでくださったということなのだろうか。
で、ご覧になってのご感想。
“ギエムは会場の人間をとりこにする。
あの肉体、あの表現力、たまりません。
そうでなくても天才ベジャールのボレロ、これ以上に興奮する作品って生涯出会えるだろうか。
まだ観ていない方は万難を排して観てください。”

もうお一人は、お気楽旦那さん。(http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1057261441&owner_id=4828019)
“実は岡山で東京バレエ団のモーリスベジャール追悼公演があるのだ。
それにあの!シルヴィ・ギエムがボレロを演じるというのだ。もう踊らないと聞いていたし、地方では見る機会もないと(彼女のボレロは映像化されていないしね)思っていたのだが、今回のツアーに限りゲストで演じるとのこと。
思えばベジャールのボレロは高校か大学の時に映画「愛と青春のボレロ」で見て衝撃を受けて以来ずっと見たいと思っていたのだ。このときはジョルジュ・ドンだったが、残念なことにこの天才は1992年に若くして急逝してしまったのである。その後を100年に一度の天才プリマといわれるシルヴィ・ギエムが踊ったのだ。
公演チケットの発売と同時期に購入していたのが、すでにS席は完売状態。バルコニーのA席を取ったのできちんと表情など見えるか心配していたのだが、シンフォニーホールは思っていたより小さく(何せ初めて行ったので)自分たちが取った席でも裸眼で十分鑑賞できた(でも出来るならS席が良かったけど)。”

ふーん、そんなにすごいんだ。
一人だけじゃなくて、二人が同じことを記したということが徴である。これはチケットを入手せずばなるまいと即断した。
すぐにえこまさんの日記にあったURLにアクセスしてみた。
東京公演の案内だった。しかし、残念なことに、ギエムが出演するプロは完売状態であった。ま、知ったのが遅かったし、しょうがないかと一度は諦めたのだが、「待てよ、地方公演ならまだチケットあるかも」と思い直し、今月31日に予定されている名古屋公演の問い合わせ先(中京テレビ事業)に電話を入れてみた。
何と幸運なことに、S席がまだ数席残っているとのことであった!
すぐに電話を切って、その日仕事が休みだった妻に連絡を入れた。「31日、休み取れる?時間休でもいいから。夕方から名古屋に行きたいんだよ、バレエを見に。」
こういう時、わが不肖の妻はよく状況を弁えている。夫がこうやって電話を入れたりする時は、万難を排して都合を付けた方がいいということをだ。
いったん電話を切って程なく、妻から「時間休をもらうことにしたから」と返信があった。
すぐに中京テレビ事業部に電話を入れた。「チケット、できれば並んで2枚お願いしたいんですけど」と言うと、3階席が並んで取れますとの返事であった。って言うか、並んで2枚というのはそれしか残っていなかった。重ね重ね何という幸運であろうか。まるでえこまさんみたいだと思った。「ではそれでお願いします」と電話を切った。

バレエについては、三浦雅士の『考える身体』(NTT出版)を読んで、その蒙を啓かせていただいた。
“舞踊ほど根源的な芸術はない。ここ二十年来、バレエや日本舞踊を熱心に見つづけてきて、繰り返しそう思った。
感動とは身体的なものだ。人によっては、理論的な何かがまずあって、その理論に近いものに出会って感動するということがあるのかもしれない。だが、それはたぶん偽物である。ほんものの感動は、そんな余裕を与えない。それは嵐のように、突風のように襲ってくるのである。鼓動が高まり、背筋が青ざめる。文字通り、打ちのめされるのである。
感動は相対的なものではない。絶対的なものだ。嵐が過ぎ去って、これはいったい何だったのかと、人は考える。感動する身体とはいったい何か。そしてまた、感動させる身体とはいったい何か、と。だが、考えているそのそばから、さらにまた新たな感動が襲ってくる。身体が震えるのである。こうして、なかば陶酔し、なかば覚醒しているという不思議な状態に置かれる。これこそ舞踊の醍醐味なのだ。”(同書、8〜9頁)
そんな舞踊が見られる機会を心待ちにしていた。

そんなふうに31日を楽しみに待っていると、その2日後、それに追討ちを掛けるようにウッキーも「ギエム体験」をその日記に記していた。(http://nagaya.tatsuru.com/ukky/2009/01/22_1032.html)
“さて、シルヴィ・ギエムである。感想はすごかった。すごすぎた。に尽きる。
(…)動き始めにも終わりにも「おこり」がない。かといって「居着き」もない。動き自体が「動き」として孤立しているのではなく、あまりに自然に、舞台や空間と見事なまでに溶け合っている。
そこで何が起こっているのか、一瞬目を疑うほどにすごかった。この動きを強く目に焼き付けておこうと、更に前のめりになる。舞台へとかぶりつく。
ホールの舞台中央に置かれた、赤くて丸い舞台上でのしなやかさは、人間がつくったものによる、人間の何でもない動きによって見出された美しさであった。
ああ、できるなら、全幕シルヴィ・ギエムの舞台を観てみたい。”

当日は、バルトークの「中国の不思議な役人」も演目に入っている。バルトークは好きな作曲家の一人だし、同曲も好きな曲の一つなので、これまた楽しみである。
ううう、待ち遠しい。