スーさん、読書する

1月13日(火)

今年最初の3連休は、土曜日の午前中が部活動と夕刻からの定例会、日曜日は部活動の試合で三ヶ日中へ、月曜日は終日家に蟄居という3日間であった。
その間、夢中になって読んだ本が3冊。
『奇蹟のリンゴ』(石川拓治/幻冬舎)
『気骨の判決』(清水 聡/新潮新書)
『自然な建築』(隈 研吾/岩波新書)
である。

「ん?それって、どっかで見たことあるよ」とお気づきの方もいらっしゃるであろう。
昨年末の毎日新聞「2008年この3冊」で、養老孟司先生がお選びになった3冊である。
先生の評は以下のごとくであった。
「いつも重厚な本になってしまうので、新書を選んでみた。『気骨の判決』は、学校で現代史を習わず、戦前の記憶がない若い世代にぜひ読んで欲しい本の一つである。裁判員制度も動き出すことだし。
今年は森に関する本が多く出たし、来年も多く出ると思う。70年代の拡大造林の結果が出てくる時期になり、石油問題もあって、これからは林業の時代になる。『奇蹟のリンゴ』は農業だが、木の話だから似たようなことであろう。面白いから読んでみたらいかが。森の話は木をどう利用するかという、川下の話と切り離せない。建築家の隈研吾の考え方に注目する。」(2008年12月14日、毎日新聞)

いずれもたいへんに面白く、3冊とも一気に読んでしまった。
これら3冊には共通するコンテンツがある。養老先生も、たぶんその共通するものを感じてお選びになったのではなかろうかと想像する。
それは、「そんなことできるはずがない」という、その道ではあまりにも自明であるとされていることをいずれも覆した人たちの話であるということだ。
一人は無農薬でリンゴの木を育てることに挑戦し、もう一人は太平洋戦争中の明らかな選挙妨害を軍部の圧力をものともせずに告発し、さらに一人は建築材料としては不適切な自然の素材をいかにもその土地にマッチするよう使用することに挑戦した。

「できるはずがない」ということを覆そうとしたのだから、3人とも相当の困難を経験せられている。
『奇跡のリンゴ』の木村氏は、何とか無農薬でリンゴの木が花をつけてくれるまでに9年の歳月を要した。その間の窮乏は悲惨を極めた。それだけに、9年ぶりに一斉に花を咲かせたリンゴの畑を見に行く場面は感動的だ。
“「なんか、まともに見られないのな。見るというよりも、ほんとにその小屋の陰から覗くという感じであったな。(…)まあ何年も花を見ていなかったから、花が咲かない方が当たり前になっていたんだな。花が咲いてるのを見ても、あそこはまだ隣の畑じゃないかって思ったくらいだったからな。だけど、どう見ても自分の畑なのさ。全部の木に、花が咲いていた。ほんとにもう、ただ、ただ、あの時は嬉しかった。あの頃を思い出すとさ、今でも涙が出てくる。」”(166頁)

そうして、その一面のリンゴの花を見て、今まで自分が気づかなかった大切なことを悟る。
“「人間に出来ることなんて、そんなたいしたことじゃないんだよ。みんなは、木村はよく頑張ったって言うけどさ、私じゃない、リンゴの木が頑張ったんだよ。これは謙遜なんかではないよ。本気でそう思ってるの。(…)畑を埋め尽くした満開の花を見て、私はつくづくそのことを思い知ったの。この花を咲かせたのは私ではない。リンゴの木なんだとな。主人公は人間じゃなくてリンゴの木なんだってことが、骨身に染みてわかった。それがわからなかったんだよ。自分がリンゴを作っていると思い込んでいたの。自分がリンゴの木を管理しているんだとな。私に出来ることは、リンゴの木の手伝いでしかないんだよ。失敗に失敗を重ねて、ようやくそのことがわかった。それがわかるまで、ほんとうに長い時間がかかったな。」”(167頁)
「リンゴ」を「生徒」と置き換えれば、そのまま教育に携わる私たちにも十分につながってくる言葉だ。

『気骨の判決』の吉田氏は、昭和18年、選挙妨害の訴えがあった鹿児島まで自ら4人の裁判官たちとともに出張尋問を敢行した。もちろん、道中空襲の心配や暴漢に襲われる危険もあった。しかし吉田氏は言う。
「わたしは死んでもいい。裁判官が事件の調べに行って殺されるのは、あたかも軍人が戦争に臨んで弾に当たって死ぬと同じ事だ。悔ゆることはない」(81頁)と。

判決前の昭和19年2月、全国の司法官が司法省の会議室に集められた。そこへ当時の内閣総理大臣であった東條英機大将が現れた。東條はサーベルをがちゃつかせ、「勝利なくしては司法権の独立もあり得ない」と言い、「戦争遂行上に重大なる障害を与うるがごとき措置をせらるるに於いては、まことに寒心に堪えない」と述べ、「真に必要やむ得ざるに至れば、政府は機を失せずこの非常措置にも出づる」と脅しをかける。
そんな脅しにも屈せず、粛々と「選挙ハ之ヲ無効トス」という判決を言い渡した吉田氏を支えたのは、正義とは何かと問われたときに答えたその正義感であったろう。
「正義とは、倒れているおばあさんがいれば、背負って病院に連れて行ってあげるようなことだ」(179頁)

『自然な建築』の隈氏の設計になる建築の中でも、新潟県柏崎市高柳の萩の島という集落に和紙だけで内と外とを仕切った建築をする挑戦。
これにも多くの困難な問題が立ちはだかる。断熱性、すきま風、防水性、防火性、防煙…。これらの機能
的な諸問題に、隈氏は地元の手漉き和紙職人である小林康生氏と手を携えながら取り組んだ。
完成後、「結果として、冷暖房のエネルギーを浪費する建築になっているのではないか」という指摘に、隈氏は以下のように答える。
「昔ながらの日本の生活の知恵を、僕はもう一度見直したい。この和紙の建築も、そういう欧米流の室温第一主義で評価すれば、エネルギー消費型という烙印を押されてしまうかもしれないけれど、そういう画一的な評価方法で、それぞれの文化が持っているユニークな環境技術を否定して、世界を画一化するのは、もっとまずいことじゃないかと思うんです」(199〜200頁)

隈氏はあくまで自然の建築材料だけにこだわる「原理主義者」ではない。例えば、土だけを干した日干し煉瓦のブロックには、セメントを少し混ぜたりもする。そうすれば、雨に当たっても表面から溶けて流れるということがなくなるからだ。的問題に、隈氏は手漉き和紙の職人と手を携えながら取り組んだ。
“もし、原理主義でいくならば、自然素材は間違いなく、この世の建築の中から、ひとつ残らず消えてなくなるであろう。何度も繰り返すが、自然素材は様々な弱さをかかえている。今日の建築素材の基準に照らしあわせれば、欠点だらけである。その「弱さ」をサポートするために、われわれは知恵をしぼる。時として、コンクリートや鉄の助けが必要なこともある。もちろん、できるだけ、そんな助けは借りたくない。しかし、そうすることで救える時に救うことをせず、自然素材自体を放棄する途を、われわれは選ばない。”(157〜158頁)
隈氏を支えているのは、以下の言葉であろう。
「制約は母である。制約からすべてが生まれる。そして自然とは、制約の別名である」

よい本に巡り会えた。
紹介してくださった養老先生に感謝したい。