スーさん、読書の神器を入手す

11月10日(月)

雨の土日であった。
こういうときは、ひたすら家にこもって読書をするに限る。

でも、土曜日は雨がそぼ降る中、午前中2時間みっちりと市営コートにて部活動の練習を行った。市ソフトテニス協会事務局から、ジュニアソフトテニス教室用のコートが2面余ったから使ってほしいと頼まれていたので、せっかく2面もあるのならとオータ先生のH中やモリ先生のI中も誘って、3校で合同練習をしたのである。

練習終了後は、すぐに家に帰って着替え、簡単な昼食を済ませて炬燵へと潜り込む。足下がぽかぽかしてくると眠くなる。そのままうとうとと1時間ほど午睡。
前から思っていたのだが、本を読んでいると眠くなるというのは、日常生活用の脳システムを読書用にリセットするための時間のような気がするのだが。と言うのは、そうやって少しだけ眠ったあとの読書というのは、自分でも感心するくらいのスピードで読めてしまうからだ。

今回集中的に読んだのは岸田秀。『ものぐさ精神分析』(中公文庫)と、『古希の雑考』(文春文庫)。
これらの本は、以前に購入してはじめの方を少し読んだだけで、そのまま書棚に戻されていた本だった。時に、そんな本がふと書棚を目にしたときに、本の方から「読んでよ」と呼びかけてくることがあるのだ。

前回、『シーシュポスの神話』(カミュ、清水徹訳、新潮文庫)を読んだときにも感じたことだが、今回の岸田秀もまさに映画『マトリックス』のアナロジーで読めるところがあった。
“そもそも人類は本来の意味での現実を見失った存在である。もはやそれを取り戻すことはできない。われわれは、見失った本来の現実の代理物として、われわれ各個人の私的幻想を多かれ少なかれ共同化した共同幻想をつくりあげ、その共同幻想をおたがいの暗黙の合意によってあたかも現実であるかのごとく扱い、そのなかに住んでいる。つまり、われわれの知っている現実とは、疑似現実であり、作為された現実である。”(中公文庫『ものぐさ精神分析』240頁)
『マトリックス』ですよねえ。
こうもいろんな著作に類推がはたらくということは、『マトリックス』が傑出した映画であったということであろうか。

他にも唸らせられたところがあった。「擬人論の復権」と題された章の最後である。
“現代医学は、擬物論的生理学に立脚しているかぎり、決して癌の治療法を発見し得ない出あろう。発想の転換が必要であろう。精神疾患と同じように、癌の現象もコミュニケーション学の領域に属するのではなかろうか。癌の治療は、国家のなかの反乱分子の駆除に似ている。タバコなど、癌の原因とされているものと、癌の発生との関係は、物のレベルの因果関係ではなく、たとえば、社会不安と暴動の発生との関係のようなものではなかろうか。それゆえに、物をモデルとする立場に立ついっさいのアプローチを拒絶するのではなかろうか。癌は、実態というより一つの思想、たとえばある独裁国家のなかの反逆的危険思想と考えるべきであろう。(…)癌細胞を取り出してすりつぶし、その構成要素を調べて癌の本質を知ろうとするのは、たとえばテレビをぶっこわしてその構成材料を調べて、テレビが伝えていた情報の内容を知ろうとするようなものではなかろうか。癌の治療法が発見されるときは、われわれのコミュニケーション学が、動物のレベルからさらにはるかに進んで、細胞のレベルのコミュニケーションまでも明らかにできたときではなかろうか。”(同書、216~217頁)
こんなこと、誰も思いつかないのではないか。癌の治療法にコミュニケーション学を使うとは!

『古希の雑考』では、「わが友アルベルト・フジモリ」がおもしろかった。
“ペルーは騙しと殺戮と虐殺の上に成立した国である。史的唯幻論を俟つまでもなく、このような異常な成立事情がこの国の社会構造を歪なものにしないわけがない。公務員が平気で汚職をするとか、テロリストが平気で無辜の一般人を殺すとかはその症状である。わたしは、フジモリの十年間の治世がこの国の歪な社会構造を是正する第一歩を画したと思っている。その第一歩を逆戻りさせようとあせっている者たちがあれやこれやの因縁をつけてフジモリを告発しているのである。”(110頁)
日本のメディアは、いったい何を報じていたのだろう。
岸田秀、いいっす。

これだから本を読むのは楽しい。
読書をするに適した季節になったということはあるが、実は読書をするアイテムが整ったということも、読書欲(?)の亢進に大きく与っている。称して、「読書用三種の神器」。
まずは、「遠近両用眼鏡」。ようやくにして、と言うべきであろうか、さすがに新聞も含めて見づらい場面が多くなってきたから購入することにした。
それにしても、よく見える!
もっと早く購入すればよかったと思った。
次は、「ブックスタンド」。ELECOM社製のEDH-004というシロモノである。
今までは、「ふーん、ブックスタンドねえ。いらないなあ」と思っていた。でも、アマゾンのカスタマーレビューの評価があまりにもよいので、つい注文してみようという気になったのだ。
週末に届いたので、すぐ実際に使用してみた。
いいっすよ、これ!
だって、本読んでる間、両手が自由になるんだから!(それがどうかしたのと言われればそれまでですが)
でも、ずいぶんとリラックスして本が読めることは事実である。ってか、集中して読める。これは「買い」です。
さらには、I.D.E.Ainternational製の「LEDブックライト」。「コンパクトにたためる、飛行機や新幹線で手元を明るくするのに便利、置くのはもちろん雑誌・本にはさめることもできる」という触れ込みの品である。とにかく、本だけを照らしてくれるのがいい。大きさは、ちょうどケータイほど。持ち運びも手間がかからない。
かくして、これら「神器」のおかげで、どんどんと頁が繰られていくのであった。

さて、土曜日は夕方から市の中心部へとお出掛け。
その日は市中体連の反省会があったのだが、それに出る気がない本校職員たちとプチ懇親会が予定されていたからだ。
中体連の反省会には、市内中学校の全ての管理職が勢揃いする。いつも思うのだが、そうやって宴会しているときに、何かコトがあったらどう対処するのだろう。校長・教頭ともに、酩酊状態で対処ができるのだろうか。せめて管理職のどちらかは、不測の事態に備えておくべきだと思うのだが。
特に合併後は、参加校数も増え、宴会場はテーブルと座席が所狭しと並べられ、とてもゆっくり酒など飲めた状態ではないと仄聞する。さらには、宴の後半は相変わらずこぞって管理職の席へと出向いて献酬とのこと。本来なら、管理職が各部顧問のところへ出向いて日頃の指導を労うのが筋というものであろう。
そういうこともあって、ここ数年は出席していなかった(今後も出席することはないであろう)。
飲み始めてまもなく、反省会に出席していたオノちゃんとヨッシーが合流した。「もう、ぜ~んぜんおもしろくないっす」と仏頂面である。「次回からもう参加しません」とも。
年季の入った指導者たちの言だ。会の持ち方を一考すべき時期に来ているということではないか。
でもま、「自閉的共同体は内部の都合でしか動かない」(@岸田秀『古希の雑考』65頁)のだから、たぶん変わることはないのだろうけれど。

明けて日曜日も、朝からそぼ降る雨。すぐに主将のところへ電話を入れ、部活動の練習中止を連絡してもらう。
もちろん、朝食後はのんびりと「おこた」で読書。本を読んでいると時間の経つのが早い。
昼食後は近くのホームセンターで日用品の買い出し。帰りに、TUTAYAで「時をかける少女」アニメ版ほか1本を借りてくる。
読書の合間にまずは「時をかける少女」を見る。「今ふう」である。いつ「フカマチくん」が出てくるかと思いきや、身近なチアキくんが「その人」だったとは。あんまり懐かしさとかは感じなかったけど、高校時代とかって一種独特な時代なんだよなあと、遠い昔のことを思い出すような気持ちにさせられた。

こういう日曜日って、いい。