スーさん、読書する

10月20日(月)

ふつうの土日だった。
午前中は学校で部活動の練習、午後は買い物やら読書やら。こういう週末の時間は貴重である。

土曜日の午後は、ずっとカミュを読んでいた。以前、内田先生がその文体を絶賛されていた『シーシュポスの神話』である。
とは言え、あくまで内田先生の場合は原語で読まれての話であって、邦訳でその感じがつかめるかどうかは、偏に訳者にかかっているのであるが。
その訳者、清水徹氏は、
「カミュの姿勢がつくりあげた、ときに抽象的な思索にふけり、ときに飛躍し、ときに叙情的にうたうこの本の文体を何とかときほぐしながら、原文のつたえるところを浮かび上がらせようと、訳者なりに努力した」
と「あとがき」に書かれていた。ますます原語で読んでみたい気持ちにさせられたが、さすがに今からフランス語のリテラシーを身に付けようという意欲は湧いてこない。

読みながら、「不条理」って映画『マトリックス』のアナロジーで読むとよくわかるという気がした。
“ふと舞台装置が崩壊することがある。起床、電車、会社や工場での四時間、食事、電車、四時間の仕事、食事、睡眠、同じリズムで流れてゆく月火水木金土、—こういう道を、たいていのときはすらすらと辿っている。ところがある日、《なぜ》という問いが頭をもたげる。すると、驚きの色に染められたこの倦怠のなかですべてがはじまる。《はじまる》、これが重大なのだ。機械的な生活のさまざまな行為の果てに倦怠がある、が、それは同時に意識の運動の端緒となる。意識を目覚めさせ、それにつづく運動を惹き起こす。それにつづく運動、それはあの日常の動作の連鎖への無意識的な回帰か、決定的な目覚めか、そのどちらかだ。そして、目覚めの果てに、やがて、結末が、自殺かあるいは自己再建か、そのどちらかの結末が訪れる。”(清水徹訳、新潮文庫28頁)
まさに、『マトリックス』の世界そのものじゃありませんか!

他にも、
“《なにもののためでもなく》仕事をし、創造する、粘土に彫る、自分の創造には未来がないということを知る、自分の作品が一日のうちに壊されるのを眺め、しかも他方では、それも、数世紀のあいだ長持ちすることを予定して建築することも、どちらも本質的にはたいして重要ではないと意識している。—これこそが、不条理な思考がよしとする辛い叡智である。”(同書200頁)
というところなど、感心しながらせっせとアンダーラインを引いていた。

日曜日の午後は、内田先生の『女は何を欲望するか』(角川oneテーマ21新書)を読んでいた。
この著作は、以前に単行本を読み、そのまま誰か(たぶん女性)に貸したまま行方不明となっていたのだが、内田先生によれば、
“新書版は単行本にかなり加筆修正を加えた。ほとんど原形を止めないほどに書き換えたところもあるし、言っていることが「単行本とはまったく逆」というような箇所も散見される。だから、同じタイトルの本だけれど、「あれはあれ、これはこれ」ということでご了解いただきたい。”
ということだったから、新鮮に読めるだろうと思っていた。

「おおお!」と感動して、またせっせとアンダーラインを引いた箇所があった。
あとがきにこう書かれていた。
“人間は誰でも「そういうもの」を欲しがっているというのはほんとうなのだろうか。私自身は「そういうもの」には他人を競争的に排除してまで手に入れなければならないほどの価値があるとは思っていない。「あれば愉しい」のかも知れないが、「なくてもどうということはない」ものだと私は思っている。男たちが眼の色を変えて「そういうもの」を追い求めているときに、女たちには「どうしてあんな『空しいもの』を欲しがるの?」と頭から冷水を浴びせかけるような態度をとってくれたらと思う。その方がシステムの生理学的な安全のためにはずっと好ましいことだ。”(216頁)
それこそ、「冷水を浴びせかけ」られたような感じがした。
われらが中学ソフトテニス界の多くの顧問に、「そういうもの」を「勝つこと」に置き換えて読んでほしかったからだ。

実は、地元の新聞には県内の各地市町村にて行われたスポーツイベントを、その結果だけ報じるコーナーがあるのだが、「ソフトテニス」のところを見ていたら、またぞろ「研修大会」と銘打った結果が載せられていた。出場校は、いつも同じような学校ばかりだ。よくやるよ、と半分呆れながら見ていたのだが、
つい研修会で伝達講習があった改訂学習指導要領のことを思い出した。
その「総則」には、部活動についても触れられている箇所がある。
第4の13項、「生徒の自主的、自発的参加により行われる部活動については、スポーツや文化及び科学等に親しませ、学習意欲の向上や責任感、連帯感の涵養等に資するものであり、学校教育の一環として、教育課程との関連が図られるよう留意すること。その際、地域や学校の実態に応じ、地域の人々の協力、社会教育施設や社会教育関係団体等の各種団体との連携などの運営上の工夫を行うようにすること」と書かれている。
この「総則」については、来年度から施行である。
いいですか、「学校教育の一環として、教育課程との関連が図られるよう留意」しなければならないんですよ。
毎週のように、レギュラーメンバーだけを引き連れて「研修大会」を渡り歩くのは勝手だけど、その間レギュラー以外の部員は顧問がどうやって指導してるんだろうか?「地域の人々の協力」?でも、「学校教育の一環」でしょ?そんな配慮がどうなされているのだろうか?
ぜひとも、こういう学校の顧問に、「指導者講習会」をやってほしい。
勝つことを求めるのはいい。でも、そんなレギュラーだけを中心とする部活動経営は、「学校教育の一環」と言えるのだろうか?
こういう経営をしている顧問は、もしも自分がレギュラー以外の部員だとしたらどう思うかということを想像したことはないのだろうか?
どう考えても、レギュラーオンリーの部活動経営は、遅かれ早かれその歪みを露呈するだろう。そうなったときには、そんな部活動経営を放置していた管理職の責任も問われることとなろう。

でも、先生は続けてこう書かれていた。
“価値観はばらけている方がよい、というのは私の持論である。有限の希少財に同じ欲望を持つ多数の人が雪崩を打って殺到することは、誰にとっても生き延びる上で不利なことである。だからこそ太古から人間社会では、その成員たちを細かく下位集団に分割し、それぞれが自分の欲望を「他の集団と競合しないもの」に照準するという知恵を働かせてきたのである。”

先生、わかりました。こういうことも、人間社会の「価値観の散け」には必要だってことなのですね。
もう、この件についてあれこれ言及することはやめることにした。価値観はばらけている方がいいからだ。
でも、最後に先生の言葉をお借りして、こう言わせていただく。
「私は(よくわからないけれど)正しいような気がする」と。