スーさん、追悼する

9月24日(水)

月曜日、帰宅してこの日記を書いていた。書き終わって、内田先生のところに送信し終え、その日の郵便物を見ていた。
大学同窓会からの「母校通信」が届いていた。春と秋に2回発行される同窓会誌だ。見るとはなしにパラパラと見ていた。

突然、「故畑道也元院長の学院葬」なる文字が目に飛び込んできた。
漢字ばかりが並んでいてどれが名前か見分けがたいところであるが、「畑道也」なる文字だけははっきりと確認することができた。誰がまちがえよう、大学時代のゼミの恩師だったからだ。
思わず、「えっ!!」と、隣で炊事の支度をしていた妻も驚くような声で絶句してしまった。
「畑先生?畑先生って、あの畑先生??」
何度も何度も記事を見直した。まちがいない。恩師、畑道也先生の葬儀を伝える記事であった。

記事によれば、学院葬が執り行われたのは、今年の4月26日とある。しかも、「3月25日に逝去された」とある。
なんで、なんで誰も教えてくれなかったのだろう。いくら関西圏に住んでいないとは言え、誰か教えてくれたっていいではないか。
この半年間、誰も先生が逝いたことを知らせてくれなかったのだ。何という不徳の致すところであろうか。それほどに、先生に関わる人たちとの交流がなかったということだ。

確かに、先生からは、「便りのないのはよい知らせ」だから年賀状とかは自分のところへ出さなくともよい、と教えられていた。
同期のゼミ生もたった4人で、それぞれ卒業後は音信不通のままであったから、同期生からの連絡というのも考えにくいことではあった。
唯一、連絡の可能性があるのは、先生と同じ教会へ通っている大学時代のクラブの先輩からの連絡であった。
すぐに電話を入れてみた。

「畑先生、お亡くなりになったんですか?」
「ああ、そうや、何やスズキ知らんかったんか。」
「ハイ、今母校通信で初めて知りました。」
「そうかあ、いや、たぶんゼミの関係とかで知ってるもんと思てたんや。いやあ、教えてやればよかったなあ、悪かったわ。」
その後、いろいろと状況を教えていただいた。
風邪をこじらせて肺炎になったこと、医者が嫌いだからなかなか診てもらわなかったこと、入院したことはごく一部の人にしか知らされていなかったこと、どうやら院長職が激務で体力を消耗されたのではと思われること、などである。

動揺が収まらなかった。
まだ信じられなかった。
先生とは、つい5年ほど前、ライフプラン休暇をいただいたときに、西宮北口で待ち合わせをして、ほんとうにしばらくぶりで酒を酌み交わしたことを、つい昨日のことのように思い出した。その時は、全然お元気であった。まさか、お亡くなりになるなんて…。

すぐに奥様のところに電話を入れた。
電話口の向こうから、「スズキさん、お久しぶりね。」という、いつもの奥様の落ち着いた声が聞こえた。
ひたすら不義理を侘びた。
それから、お亡くなりになるまでの経過を詳しく聞かせていただいた。
言葉がなかった。

畑先生には、ゼミの指導だけでなく、クラブのことでもいろいろとお世話になった。
大学時代、所属していたクラブは、大学吹奏楽界においては知る人ぞ知る名門の吹奏楽部であった。何しろ、全日本吹奏楽コンクールでは、大学の部において初優勝して以来、ずっと日本一の座を守ってきたからだ。
他大学がプロの演奏家を指揮者に迎えても、われらが吹奏楽部は頑として学生指揮の伝統を曲げず、あくまで学生が主体的に運営するという姿勢を貫いてきた。
初優勝以来、17年目の指揮者が私であった。
コンクールで演奏した自由曲は、本吹奏楽部が日本初演した曲の一部である。
この曲は、阪急少年音楽隊・百貨店吹奏楽団の指揮者をされていた故鈴木竹男先生が渡仏された際、作曲者から直に総譜を手に入れられた曲である。その総譜を、鈴木先生が本吹奏楽部に寄贈された。そんな経緯があっての本邦初演であった。
だが、曲の解釈は学生には難しかった。
総譜を読んでいく過程で、当時本学の交響楽団の指揮者もされていた畑先生のご助力を仰いだ。
夏休み、その総譜を持って、汗を拭き拭き自転車をこいで、上ヶ原から先生のご自宅のある甲陽園まで日参した。
そんな甲斐あってか、かなり自信を持って指揮ができるようになった。

コンクールが近づいてきた。
まずは、8月の終わりに行われる関西大会。会場は、大阪森ノ宮の青少年ホールである。
練習の裏付けもあったし、曲の解釈にも自信があった。
結果、関西代表で全日本へ出場できることが決まった。

全日本吹奏楽コンクールは、10月、東京・杉並の普門館にて行われた。
演奏順は最後。金賞をとる自信はあった。
演奏が終わった。しばらくして発表である。演奏団体は、4名が代表でステージに上がることになっていた。手前は、部長と3年生2名とともにステージへと向かった。
いよいよ発表だ。出演順に、結果が発表されていく。例年、金賞校は2校である。本校の発表までに、既に2校が金賞だった。「あれ?今年は3校が金賞かあ?」とのんびり考えていた。本校の番だ。
銀賞だった。
わが耳を疑った。「は?そんなアホな、金のまちがいちゃうんか!」と、部長と顔を見合わせた。血の気が引いていく気がした。

まだ結果が信じられないままに表彰式を終え、部員たちのいるところへ戻った。みんな泣いていた。不思議と涙は出なかった。自分の中では、まだ結果を受け入れられていなかった。
外へ出ると、応援に駆けつけてきてくれていたOBたちがいた。そのOBたちも、口々に「何であの演奏で銀なんや!」と泣いていた。その姿を見たとき、初めて「ああ、オレは何ということをしてしまったんや!」と急に胸が詰まって涙が零れた。

その日の夜は、どうやって過ごしていたのかほとんど記憶にない。神田の居酒屋で後輩たちと飲んだことは覚えているが、その後どうやって宿舎に帰ったのか、宿舎で眠ったのかどうかも記憶にない。
とにかく、結果だけは報告しようと、先生のご自宅に電話をかけた。しかし、先生は学会で岡山に行かれていて留守であった。「明日は戻ってるわよ」と、奥様からお聞きした。無性に先生の声が聞きたかった。
それからは、ただ一つのことだけを呪文のように心の中で唱えていた。「大学に戻ったら、死んでお詫びをしよう」と。

翌日の夕方、大学に戻った。大学は学園祭の最中であった。すぐに先生のところに電話を入れた。
「すみません、先生、負けました。」と報告をすると、先生は「今すぐ家へ来いや。」とおっしゃった。
先生のところへ報告し終えたら、須磨の浦公園にでも行って、入水しようかとぼんやり考えていた。
悄然と先生宅へ向かった。家に着くと、「まあ飲めや。」と酒を注いでくれた。
その時先生がおっしゃった言葉が、生涯忘れ得ぬ言葉となった。
「鈴木、コンクールは負けてしもて、吹奏楽部にとったら残念な結果やったけど、おまえのことだけとって言うたら、負けてよかったな。勝ったらアカンかってんで。」と。
自分の中で何かが堰を切ったようだった。
声にならない声をあげて号泣した。
この先生の教え子でよかった、と心から思った。
これから、生涯この負けを背負っていこうと決意した。

教員になって、テニス部の顧問になった。部員たちに精神的な支えを持たせようと、大学体育会のモットーであった“NOBLE STUBBORNNESS”という言葉を教えた。
この言葉は、大学で庭球部の部長もされていた畑先生の父上が考案された言葉である。畑先生の教え子である自分も、この言葉を何らかの形で受け継ぎたかった。

もちろん、私の結婚式にも来ていただいた。
その時、コンクールのこともお話ししていただいた。また泣けてしまった。
2次会で、先生も加わって大騒ぎをした。そのことも忘れられない。

前回、西宮北口でお会いしたのが、先生とお会いした最後になってしまった。まさかそんなことになるとはつゆ知らず。
その時、先生は飲んでいたウイスキーのコースターに、中村天風氏の言葉を書き付けてくださった。
「ありのままに我ある世とし生き行かば、悔いも恐れも何物もなし」
これが遺品となってしまった。

先日の日記で、「ベートーベンの交響曲第1番。初めて聴いたのは大学時代、大学オーケストラの定演だった」と書いた。実は、その演奏の指揮をしたのが、畑先生だった。何かの知らせだったのだろうか。
先生は、チェリストでもあった。学生時代には、自ら桐朋音大まで出かけていき、当時日本でも有数のチェリストだった齋藤秀雄氏に師事したともお聞きした。その際には、当時桐朋音大のオーケストラを指揮していた小澤征爾の下でチェロを弾いたこともあるという。
そんな先生が、「あれはホンマええでえ」と言っていた演奏があった。ラインスドルフ指揮、シカゴ交響楽団によるブラームスのピアノ協奏曲第2番である。ピアノはリヒテル。第3楽章の有名なチェロのソロを弾いたのが、Robert LaMarchinaである。
いかにも嫋やかな演奏であった。こういう演奏が先生の好みだと知った。

先生の講義もすばらしかった。特に、今でも鮮明に覚えているのは芸術学特殊講義。モーツァルトの交響曲第36番「リンツ」のアナリーゼである。モーツァルトの作曲法がそれまでの作曲家たちとどう具体的に違っているのかを、和声法から解明した画期的な講義であった。毎回、興奮しながら講義を受けたことを思い出す。

書き出せばきりがない。

畑先生、葬儀に参列するどころか、身罷られたことすら半年間も知らないままでいた、この不義理な愚か者をどうかお許しください。
先生に生かされた命と思っております。
これからも、先生から教えていただいたことを心に刻み、一人でも多くの人にそれを伝えていきたいと思います。

「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(ヨハネ福音書4章14節)

やすらかにお眠りください。