スーさん、柴五郎の伝記を読む

2月18日(月)

先週の、悪夢のような雪中行とはうって変わって、平穏な週末であった。土日とも午前中は部活動、土曜の午後からは、今週後半に控えている学年末試験の問題作成、晡時より小宴と支部例会。日曜の午後は、VTRに録画してあったいくつかの番組をDVDにダビングする作業。黄昏よりちょっとした買い物に出、帰宅後はCDの整理。昔はそんなことは思ったこともなかったが、ここ数年、こうした時間が何物にも代え難い貴重な時間と思えるようになってきた。

その土曜日の小宴は、カンキくんが「支部のみなさんでどうぞ」と送ってくれたワインを、いつもの「まこと」へ持参して賞味させてもらう会。ひとしきりビールを飲んだあとに、「では」とヤイリくんが開栓。相伴したのは、他にオーツボくん、ワダくん、そして飛び入り参加のイケヤくん。どれどれ、ふんふん、ごく…。「うーん、まろやかですなあ」などと言いつつ、「ではもう一杯」と重ねられて、寸秒の間に瓶は空となってしまった。

さらには、前回の浜松訪問時にカンキくんが持参したソースで、焼きそばを作ってもらった。これも、「最初は甘いのに、だんだん辛くなって、こりゃあ酒が進みますなあ」ということで、「じゃ、これで焼きうどんも頼んじゃおう!」と盛り上がる。もちろん、そのソースは「まこと」でキープしてもらえることになった。一同、「カンキくん、いろいろおいしいものをありがとうございました」と、神戸方面に向かって合掌する。

その後の例会では、先週ヨッシーから四暗刻タンキを和了って意気軒昂のオーツボくんを尻目に、支部長が着々と和了を繰り返し、終わってみれば一人勝ち。相変わらず、「酔雀」は健在である。今年は、シンムラくんも調子がいい。今のところ、何とトータルで暫定3位である。さすがに、記録的な敗北を続けた昨年の教訓が生かされているというところであろうか。

そのシンムラくんとこのチームであるが、日曜日、6名の選手が本校を訪れて一緒に練習を行った。シンムラくんは、1年生大会の予選リーグ敗退がよほどこたえたのか、3連休のときなども終日練習を敢行しているそうだ。「そんなに練習しても、男の子らは集中力が持たないし、モチベーションも上がらないんじゃないの?」と、多少揶揄しつつ助言したこともあったが、「いや、弱いチームは練習しないと」と真剣であった。しかし、どうも自校だけの練習ではレベルアップしてこないことに焦燥の感もあり、何かしらの光明をとの思いもあって、今回の練習参加となったのかもしれない。

終了後、昼食を共にしながら、あれこれ話をする。シンムラくんは、「いやあ、やっぱ練習のレベルが高いっす」と感心しきりである。シンムラくんとこの選手を見ていくつか気がついたことがあったので、そのことを指摘する。いつも練習を見ていると、つい見逃してしまうこともある。シンムラくんのような若い指導者には、そんな「目の付け所」を知ってほしい。そのことで、選手がずいぶん技術的にレベルアップすることだってあるのだ。

さて、まだ2月であるが、「これぞ今年のベストワン!」という本に出会ったので、そのご紹介を。

その本とは、『ある明治人の記録』(石光真人編著/中公新書)である。この本のことは、『本読みの虫干し』(関川夏央/岩波新書)で知った。内容から、どうしても読みたいと思い、すぐに近くの書店に行って買い求めてきた。すぐに読了した。と言うか、まるで小説を読んでいるかのように、読み始めたら止まらなくなってしまった。本文は文語調で書かれているが、そんなことは微塵も気にならない。それほどに、ぐいぐいと読ませる。

この本は、江戸末期に会津の上級武士の五男として生まれた柴五郎が、死の3年前に、石光真人に自身の少年期の記録を貸与したことをきっかけにして編まれた本である。会津戦争で、母親を始め一族に多くの犠牲者を出す悲惨さを経験、さらに会津落城後の江戸への俘虜収監、そして移封地である下北半島での悲惨な飢餓生活を経て再び江戸に出、下僕などの流浪の生活もしながら軍界に入るまでの一部始終が、「遺書」として綴られている。

どの頁を繙いても、その鬼気迫るような内容と独特の語り口に、思わず引き込まれて読み耽ってしまう。例えば、会津落城に際し、叔父より屋敷に残った母親らのことを聞かされる場面。
“「今朝のことなり。敵城下に侵入したるも、御身の母をはじめ家人一同退去を肯かず。祖母、母、兄嫁、姉、妹の五人、いさぎよく自刃されたり。余は乞われて介錯いたし、家に火を放ちて参った。母君臨終にさいして御身の保護養育を委嘱されたり。御身の悲痛もさることながら、これ武家のつねなり。驚き悲しむにたらず。あきらめよ。いさぎよくあきらむべし。幼き妹までいさぎよく自刃して果てたるぞ。今日ただいまより忍びて余の指示にしたがうべし。」
これを聞きて茫然自失、答うるに声いでず、泣くに涙流れず、眩暈して打ち伏したり。”(30頁)

さらには、下北半島での飢餓生活の一節。
“建具あれど畳なく、障子あれど貼るべき紙なし。板敷には蓆を敷き、骨ばかりなる障子には米俵等を藁縄にて縛りつけ戸障子の代用とし、炉に焚火して寒気をしのがんとせるも、陸奥湾より吹きつくる北風強く部屋を吹き貫け、炉辺にありても氷点下十度十五度なり。炊きたる粥も石のごとく凍り、これを解かして啜る。衣服は凍死をまぬかれる程度なれば、幼き余は冬期間四十日ほど熱病に罹りたるも、褥なければ米俵にもぐりて苦しめらる。”(62頁)

食べ物がなく、ついに死んだ犬の肉を食べる一節。
“無理して喰らえども、ついに咽喉につかえて通らず。口中に含みたるまま吐気を催すまでになれり。この様を見て父上余を叱る。
「武士の子たることを忘れしか。戦場にありて兵糧なければ、犬猫なりともこれを喰らいて戦うものぞ。ことに今回は賊軍に追われて辺地にきたれるなり。会津の武士ども餓死して果てたるよと、薩長の下郎どもに笑わるるは、のちの世までの恥辱なり。ここは戦場なるぞ、会津の国辱雪ぐまでは戦場なるぞ」
と、つねと変わりて語気荒く叱る。”(64頁)

その苛酷さに、つい恨みごとも言いたくなってしまう。
“父上、兄、余は朝より夜まで、垂れたる蓆をあおりて無情にも吹き入る寒風に身をふるわせつつ縄をなえり。ともすれば感覚を失う指先に念力をこめて、ただひたすらに縄をないですごせり。
この境遇が、お家復興を許された寛大なる恩典なりや、生き残れる藩士たち一同、江戸の収容所にありしとき、会津に対する変わらざる聖慮の賜物なりと、泣いて悦びしは、このことなりしか。何たることぞ。はばからずに申せば、この様はお家復興にあらず、恩典にもあらず、まこと流罪にほかならず。挙藩流罪という史上かつてなき極刑にあらざるか。”(74頁)

もう十分だろう。この過酷な環境を、それでも生き延びさせたのは、他ならぬ薩長へのルサンチマンであったろう。だからこそ、この「遺書」は西南戦争で西郷隆盛が、継いで大久保利通が世を去ったの見届けて終わる。
“この年の五月、内務卿大久保利通暗殺さる。大久保は西郷隆盛とともに薩藩の軽輩の子として生まれ、両親ともども親友の間柄なるも、大義名分と情誼を重んずる西郷と、理性に長けたる現実主義政治家たる大久保とは、征韓論を境に訣別し、十年の西南戦争においては敵味方の総帥として対決し、しかも相前後して世を去る。余は、この両雄維新のさいに相謀りて武装蜂起を主張し「天下の耳目を惹かざれば大事成らず」として会津を血祭りにあげたる元凶なれば、今日いかに国家の柱石なりといえども許すこと能わず、結局自らの専横、暴走の結果なりとして一片の同情も湧かず、両雄非業の最後を遂げたるを当然の帰結なりと断じて喜べり。”(121頁)

歴史は、その照明の当て方によっていろんなフェーズを呈する。そんなことを実感させられる著作である。未読の方は、是非購入して読まれんことを。