スーさん、公私混同に筆誅を下す

12月10日(月)

再び何もない土日。

両日とも、午前中に部活動を行い、午後は、節季ということもあり、少しずつ家の中の片付けをしたり、年賀状を作成したりして過ごす。

その土曜日、晡下よりいつもの旗亭「まこと」にて小宴の予定であったが、その前にもう一度長年通った雀荘のおばちゃんのところへ、ヨッシー、オノちゃんを伴って出向き、何とか店の継続をお願いしてみた。が、やはり高齢のためこれ以上の店の継続は不可能ということを再確認したのみであった。おばちゃんからは、一応近くの雀荘も紹介はしてもらったのだが、「あそこもやってるかどうかねえ、何せあそこのオーナーもトシだから」というお話であった。

そのまま小宴後、おばちゃんに紹介してもらった雀荘へ行ってみた。ところが、土曜日の夜というのに店の明かりは点っていない。入口のインターホンを押しても返事はない。どうやらおばちゃんが言ったとおりの様子だ。仕方がないので、先週行った雀荘へ移動したのだが、そこは逆に満席。「どうする?」と思案暫し。と、そこからさらに1キロ弱ほど南に下った国道沿いに、もう一軒雀荘があることに気付いた。

さらに移動して店に到着、おそるおそる入口の扉を開けてみると、店の人が一人ソファーで寝ていた。「すみません、麻雀いいですかねえ?」と尋ねると、跳ね起きて破顔一笑、「どうぞどうぞ」と迎え入れてくれた。どうやら、客はいないらしい。「飲み物は無料なんで、勝手に冷蔵庫から出してくれればいいっす」とおっしゃる。第一印象はいい。でも、これは大切なことだ。

そこで半荘を6回。この日は「オノ・デー」であった。手前は、最後にやっと1勝し、何とかマイナスを一桁に止めることができた。その間、インスタントラーメンとかを頼んだメンバーもいたのだが、何とそれも無料であった。「いいっすね、ここ。ここにしましょう!」と支部会員の一致を見る。「あの、元旦も営業してます?」と尋ねると、「やってますよお。予約入れときましょうか?」という心強い返事が返ってきた。こうして、新たなる支部定例会会場は決定されたのである。

さて、今週の「Dies irae(怒りの日)」のお題は、「これ、公私混同だろ?」

先週半ばの木曜日、朝出勤してみると机上にFAXが置いてあった。見てみると、どうやらテニスの試合の案内である。送付元は某小学校。「なんで小学校から試合の案内が来るんだあ?」と訝りつつ、要項を見ると、主催は某中学校ソフトテニス部となっている。どうやら、送り主でありその試合の運営責任者が、小学校の先生ということらしい。さらには、その中学校とは「部員の保護者」ということで繋がりがあることもわかった。

それにしても、だ。自分の子どもが通っている中学校が主催する試合のための案内を、勤務先の小学校からFAX送信していいものなのだろうか?よくないでしょ?だって、そんなの公私混同じゃん。その試合と、当の小学校とは何の関係もないんだから。この人、ホントに小学校の先生なのだろうか?そうではないと信じたいなあ。少なくとも私は、こういう人物と同業者だとは思われたくない。

さらに、だ。要項には、「参加予定校」の項目があり、なんとそこに本校の名前が記してあったのである。「おい、誰が出るって言った?オレはひと言も出るなんて言ってないやんけ!」と、思わず関西弁が出てしまったのであった。もちろん「参加予定校」の下には、「1次要項発送校」と括弧書きしてある。だからって、勝手に載せていいってことないでしょ?せめて事前にアポくらい取れよってば。小学校の先生なのに、そんな基本的なこともご存じないのだろうか。まさかね。

試合の案内を送られた学校によっては、本校の名前を見て「おお、県大会優勝校が来るんだ。じゃあ、ぜひとも参加しよう!」と考える顧問の先生だっているだろう。だけど、そうやって他校の名前を「客寄せパンダ」のように使うのは、いかがなものか。どうやら、この「運営責任者」の方には、「他者とは、自分が都合よく利用するもの」と定義されているらしい。もっと内田先生の本とかを読んで勉強してほしいものだ。そうすれば、そのような考え方がいかに間違ったものであり、そういうやり方が世間一般には「卑劣なやり方」としてカテゴライズされているということがお分かりいただけるであろう。

これは、偏に「運営責任者」の問題と言うべきなのかもしれない。しかし、主催は中学校のソフトテニス部である。そういうマナーの何たるかも解さないような人物、さらには「公」と「私」の別も弁えないような人物を「運営責任者」に据えておくこと自体が、部に対する有形無形の信用問題に関わってくるのではないだろうか。

「熱心さ」というのは、「何でもあり」の意ではない。そうやって公私の別なく勤務先からFAXを送り付け、名のある学校名を無断で使って参加校を寄せ集め、それらの試合を通して自校のレベルアップを図ろうとする。中には、そうすることが、恰もその「地区のレベルアップに貢献している」と評価する向きもあるやに仄聞する。しかしそれは、ちょっとお門違いと言うべきであろう。そんなものは「熱心さ」でも何でもない。それを企画運営している者の、単なる売名行為である。こんなことをしている暇があったら、もっと本分である教師としての自己研修に励むことこそ肝要なことであろう。

当然のことであろうが、このような試合が今後もずっと続いていくということはあり得まい。いずれ、誰も参加しようとはしなくなり、次第に消滅の道を辿っていくことであろう。それが自然の摂理というものである。自然に逆らった、無理な拵えものには生命力がない。生命力のないものは、生き存えていくことはできないのである。

百歩譲って、ソフトテニスが生き残っていくために必要な「多様性」の一つとして、マナーに対するアンチテーゼとしての存在意義があるとするなら別だが、そうなるためには、そのアンチテーゼの中心にかなりの「毒」がなければならない。残念ながら、この程度ではアンチテーゼとはならないであろう。

取るべき道はただ一つ。このような試合を催すことを、即刻中止すること。そうして、勝手に校名を載せた学校にはお詫びの電話を入れ、せめて勝手に使用した自校のFAX代くらいは支払うこと。さらには、よりよい試合の持ち方について研修を積むこと。そうすれば、周囲からも認められ、試合開催や参加の機運も高まってこようというものである。そうなって初めて、試合開催の検討に入るのである。事の順序を間違えてはいけない。

これは今に始まったことではないのだが、どうも部活動の試合とかになると、周囲の大人がヒートアップしがちである。「子どものため」という大義名分を掲げれば、「何でもあり」と勘違いしてしまうのだろうか。でも、そこは大人としての分別をはたらかせねばならない。「主役は誰か」ということである。

おっと、毎週こんなことばかり書いていると、そのうちに大家さまから、「スーさんの暴虐わるぐち日記」などと改題されてしまうやもしれぬ。もうこのへんでやめておくのがよかろう。くわばらくわばら。