国立蕃書調所(案)

9月10日(月)


長い1週間だった。どうも、単位時間に縛られながら、きっちりと日課に従って生活するという習慣が再形成されるのには、時間がかかるみたいだ。と言うか、年々時間がかかるようになってきているような気がする。と言うことは、それが加齢によるものであるとも言えるのかもしれない。


しかし、暑い日が続く。先週は、週半ばにいきなり台風9号が来襲して、午前中で授業カットになった日もあったが、風のある日ならともかく、油照りの日などはじっとしているだけでもシャツが汗を吸って不快なことこの上もない。われわれ教師は、業閒に職員室で冷風に浴することもできるが、生徒たちはそうはいかない。「なあに、修行の身に過ぎた惻隠の情は無用のこと」などとは申すまい。著しい不快感に耐えながら、尚かつ学習意欲を高調に保て、というのは生理的に不可能な要求である。


さて、いつも夏休みにはまとまって読書することにしているのだが、今年は村上春樹訳の小説を集中的に読んだ。『グレート・ギャツビー』(S.フィッツジェラルド/中央公論新社)、『レイモンド・カーヴァー傑作選』(R.カーヴァー/中公文庫)、『ロング・グッドバイ』(R.チャンドラー/早川書房)の3冊である。どれもおもしろく読めたが、中でも「感歎措く能わず」だったのが、『ロング・グッドバイ』であった。584頁に及ぶ大冊であったが、まったくその長さを感じることなく一気に読んだ。


そんなことを、「城崎極楽温泉麻雀」時、出石へ向かう内田先生のBMWの中で話していた。先生は、「マーロウは、訳者によって、その訳者だけのマーロウになるんですよね。村上春樹訳のマーロウは、まさしく村上春樹のマーロウなんです。」とおっしゃっていた。そうして、お話は「翻訳というお仕事」というようなことに発展していった。たいへん興味深いお話であった。


私たちが、日本語以外の言語にて書かれた作品を読もうとするには、二とおりの方法によるしかない。辞書を片手に原書を直接読むか、日本語訳されているものを読むか、である。外国語というものは、「ちょっとやってみようか」などという軽いノリでは、辞書を片手でも原書を読めるようになるまで習得することは難しい。いきおい、そんな手間も時間も才能もない手前のような者は、日本語訳者によるものを読むようになる。


告白するが、手前は今まで外国の作品を読んでその意味するところや、情景描写及び登場人物らの心情がいまいち把握しきれないのは、偏に自らの読解力の不足によるものであると頑迷に信じていた。ところが、最近になって、『完訳ファーブル昆虫記』(奥本大三郎訳/集英社)が話題になったり、光文社古典新訳文庫の『カラマーゾフの兄弟』(亀山郁夫訳)が脚光を浴びたりしたことを見るにつけ、どうやら外国の作品の読解は、偏に訳者にかかっているのではないか、と思うようになってきたのである。


そこへ『ロング・グッドバイ』である。手前が「偏に訳者に…」という感を強く持ったであろうことは言を俟つべくもない。まるで村上春樹の小説を読むように読めてしまうのである。よく言われるような「翻訳調」の言い回し(くどい、主語と述語がずいぶん離れている、挿入句が多いなど)を微塵も感じさせない訳であると思う。こういう訳で外国語の作品を読んでしまうと、もう「偏に訳者」と思ってしまうのである。


そんな名訳に触れた経験がなかったわけではない。学生時代に読んだゲーテの『ファウスト』は、手塚富雄の訳(中公文庫)であればこそ、その深い感動を味わえたのであろうと確信しているし、SFの『幼年期の終わり』(A.C.クラーク)や『夏への扉』(R.A.ハインライン/ハヤカワ文庫)は福島正実の、『アルジャーノンに花束を』(D.キイス/早川書房)も小尾芙佐の名訳があってこそ、その名作ぶりが堪能できたということだろうと思う。然様に、訳者の果たす役割はきわめて大きい。


さすがに、哲学や思想の関係の書物となると、訳者の力だけではどうしようもないということもあるのだろうか。たぶん、原文で読んでも難解な語句が並べられているのに、それを日本語に直すだけでなく、内容も正確を期そうなどということになれば、その訳が難解至極になるであろうことは想像に難くない。よく引用されるキェルケゴールの『死に至る病』の冒頭などが、その典型であろう。


しかし、と敢えてお願いしたい。例えば光文社古典新訳文庫などには、レーニンの『帝国主義論』(角田安正訳)などもラインナップされている。斯様に、どうか外国語に堪能な方におかれては、思想・哲学関係の書にも読みやすい邦訳を施して出版していただきたいのである。


以前は、岩波文庫がまさにその役割を果たしていたと思う。岩波文庫は、その範をドイツのレクラム文庫に採り、文芸・哲学・自然科学・社会科学など広範なジャンルの本を廉価で提供してきた。岩波文庫が日本人の知識向上に果たした役割は、もちろん小さくないであろう。しかし、(別に岩波書店には何ら含むところはありません、念のため)いかんせん、今となってはその訳は、あまりにテクストに正確を期そうとしたためか、読みにくいものが多いのではないか。「よし、ちょっと難しい本に挑戦するぞ!」と意気込んで本を手に取っても、書店で頁を開いた瞬間に、「う、これ無理」と思ってしまうような本では、せっかくの古典に触れるチャンスをみすみす逃してしまうのではないか。そうすると、それは岩波文庫創刊のコンセプトに悖ることにはならないだろうか。


岩波文庫には、今でも巻末に有名な岩波茂雄の「読書子に寄す」が載せられている。文中、「生命ある不朽の書を少数者の書斎と研究室とより解放して街頭にくまなく立たしめ民衆に伍せしめるであろう」とある。しかし、この尺牘が書かれた時代に比べ、残念ながら現代は日本語の読解力が落ちていると思われる。そうなると、「ちょっと難しそうだけど、読んでみようかな」と思えるような本であるためには、訳を工夫していくしかないと思うのだ。


もちろん、難解な哲学や思想の書が軽々しく扱われてよいというわけではなかろうが、今やマンガの「現代思想入門」の本だってある時代だ。外国語で書かれた優れた書物を、できるだけ多くの日本人が読めるように提供していくことは、社会的にも有用なことであると思うのだが。こういうことは、一出版社が何とかするとかではなく、公に行われてもよいことなのではなかろうか。


例えば、江戸末期の「蕃書調所」のようなものを、国立で設けてくれないだろうか。曰く、「国立蕃書調所」。そこに、世界中のあらゆる言語に対応できるよう、人物を招集する。もちろん、そこの所員には高いギャランティをもって遇する。そうして、有益と思われる外国語の書物を、次々と翻訳・出版せしめる。もちろん、公刊であるから安価に頒布する。なあに、以前不良債権対策のために金融機関に大量に降下した「公的資金」のことを思えば、その運営資金など高が知れている。それより、この施設による文化的・社会的・経済的な費用対効果こそ、これからの日本に計り知れない福徳をもたらすであろう。どうか、政治家・官僚諸賢には、その設立を伏してお願いする次第である。