スーさん、定年後について考える

4月16日(月)

定年後のことなんて、今まであんまり考えたこともなかったのだが、手前もちょうどあと十年で定年を迎える。そんな意識も働いてか(どうかは分からないが)、『定年後』(加藤仁/岩波新書)という本を読んでみた。

筆者は、25年以上にわたって三千人以上の定年退職者にインタビューし、その日常を描き続けてきたそうだ。そんな蓄積もあってのことであろう、この本では様々な人たちの定年後の生活ぶりが次々に紹介されていく。

いくつか、印象に残った言葉を挙げてみる。
“たとえば、八十歳になったとき、それまでの人生を振りかえって、こう言えたならば、定年後の生活が充実していたということであろう。「サラリーマン時代は『リハーサル』、その後の人生が『本番』だった」と。
このように語る定年退職者に私は数多く会った。”(8頁)

どうしてこのようなことが言えるのか。筆者は、定年まで働いた時間と定年後に過ごす時間が同一であるということを根拠として挙げている。
“二十歳から働きはじめて六十歳で定年を迎えたとすると、それまでの労働時間の総計は二千時間(年間労働時間)×四十年間=八万時間になる。この八万時間の報酬としてマイホームの購入、子育て、社内の昇進昇格をやってのけたことになる。
では、定年後はのんびりと過ごすことにする。睡眠や食事、入浴の時間を差し引くと、一日の余暇時間は平均して十一時間以上もある。八十歳まで生きるとすれば十一時間×三百六十五日×二十年間=八万三百時間である。つまり定年後の余暇時間は、会社で働いた時間とほぼおなじということになる。この『八万時間』によって、これからはなにを得ようとするのか。”(77頁)

そりゃあ、いつ死ぬかなんて誰にも分かりゃしないんだから、こんなふうに定数化して計算など出来はしないとも思うのだが、定年後が無病息災で過ごせるのなら、ともあれ「八万時間」の「余暇時間」ができるということだ。うーむ、どうしてくれよう。

もちろん、三千人以上にインタビューすれば、成功例ばかりではなく「失敗例」も数多くあったのだろう。「ああ、こんな生活は確かによくないよなあ」と思わせる事例も紹介されている。
“その夫はこの地に進出した大企業の工場に勤め、定年後も六十五歳まで下請け企業で嘱託として働いた。しかし仕事を辞めてからは、わずかながら畑仕事をするだけで、ほとんどテレビの前に腰をおろしている。その姿を見るだけで妻はストレスが溜まるし、それまでのように自由に外出できないのが不満でもあった。夫婦の対話はほとんどなく、妻はせめて自分の気持ちを落ちつかせるためにも、働くのがいいと考えた。そうした妻の姿に触発されて、夫が趣味活動か地域活動をはじめてくれるのではないかという期待もあった。しかし、夫はテレビに釘づけになり、ひとり画面にむかって政治批判を繰りかえす日々がつづいているという。”(125〜126頁)

あり得る。最近、娘のいなくなった居間でテレビを見ていると、思わず「ひとり画面に向かって政治批判」をしている自分を見出すことがあるのだ。こ、これはまずい。

他には、こんな言葉。
“ギブ&テイクはかつての職場に払い下げておき、定年後は「ギブ&ギブ」を心がけると、新たな処世が拓けてくるし、自分らしさも貫ける。”(170頁)
“趣味活動であれ、地域活動であれ、学びであれ、自分たちの活動に「未来」の共有という要素があるのかどうか、ぜひとも確認しておきたい。”(179頁)
“こだわりを持ちつつ打ち込める対象があれば、多病ともつきあっていける。”(187頁)
“自立か、さもなくば依存か、という二者択一が定年後の生活ではない。”(216頁)

なるほど。

読み進むうちに、自分にもそれらしい「定年後」のイメージがわいてきた。まだ、とても他人様には公開できるようなものではないが、とりあえず、「こういうことなら自分でもできそうかな」というようなものである。

今まで、時折は「早く退職して悠々自適の生活をしたいよ」とか、「退職したら妻と旅行三昧だな」などと言ったりすることもあったのだが、それは飽くまで漠然としたイメージであって、実際にはかなりシビアな生活が待っているのではないかということを想像させられた。

十年なんて、過ぎてみればあっという間である。「その時」が来て、あたふたしなくてもいいように、今から少しずつ心の準備を始めることにしようか。そんな気にさせられた著作であった。