スーさん、「学級作り」について考える

4月9日(月)

新学期が始まった。

ちょうどそんな時期に合わせてという意図もあったのだろうか、先週の火曜日(3日)に放映されたNHKの「プロフェッショナル 仕事の流儀」では、東京都の中学教師である鹿嶋真弓先生の実践が紹介されていた。ご覧になった方も多かろうと思う。

鹿嶋先生は、ご自身の学級づくりの中心的な手法として、「構成的グループエンカウンター」(リーダーの指示した課題をグループで行い、そのときの気持ちを率直に語り合うことを通して、徐々にエンカウンター体験-本音を表現し合い、それを互いに認め合う体験-を深めていくもの。この体験が、自分や他者への気づきを深めさせ、人とともに生きる喜びや、わが道を力強く歩む勇気をもたらすとされているカウンセリングの手法)を実践されていた。きっかけは、生徒たちのコミュニケーション力が低下しているという実感だったという。

どうもこの「構成的エンカウンター」ばかりがクローズアップされることで、それがいかにも学級づくりに中心的な役割を果たしているかのように思われがちであるが、そうではないと思う。番組の中でも言及されていたが、エンカウンターは万能ではない。あくまで学級づくりのための方法の一つとして使用されているに過ぎない。学級づくりの中心を成しているのは、何と言っても先生の学級と生徒への愛である。

番組を見ながら、「そう言えば、こういう先生って昔はたくさんいたよなあ」と思っていた。たぶん鹿嶋先生も、「私は特別な教員ではありません」とおっしゃるのではないか。先生が、手前のような凡庸な教員と違うのは、ともすれば加齢とともにマンネリズムに陥りそうになるところを、いつまでも初めて担任を持ったときの新鮮さを失わずにいるというところにあると思われる。

手前が教員になってから10年くらいの間は、校内でも学級づくりについての研修が盛んに行われていた。「全国生活指導研究協議会(全生研)」の常任委員会が編集した『学級集団づくり入門』 (明治図書)という本は、熱心に学級づくりを研究している先生の間ではバイブルのように読まれ、「班づくり」と「リーダーづくり」を中心に据えた学級づくりの方法論が積極的に実践されていった。

具体的には、班競争を意識的に仕組むことで、班としての意識を高めさせ、リーダーを育てていくということを基本的な手法として用いていた。競争する項目は、班長会(学級運営委員会)によって決定された「取り組み項目」(ちょっとがんばればすぐに達成できるもの-例えば、「8時5分には全員着席しよう」というようなもの)。達成までの期間を決め、全ての班が達成できたら、また次の競争項目を決める。ただし、達成できない班が固定化したら、学期途中であっても全ての班の編成替えを行うというような方法であった。

ところが、いつのころからか学級づくりが話題にならなくなっていった。雑駁な印象では、たぶん平成になってからのこと(1990年代)であるような気がする。平成元年というのは、世界史上で大きな事件のあった年である。ベルリンの壁が崩壊し、事実上東西冷戦に終止符が打たれた年なのである。それがどうして学級づくりと関係があるのか。

全生研の学級集団づくりは、旧ソ連の集団づくりの手法(マカレンコの集団主義教育の方法論等)に範を採っていたと仄聞している。つまりは、その実践を裏打ちする理論が、イデオロギーと無関係ではいられなかったということである。ソ連の崩壊は東西ドイツの統一から2年後。「どうも、集団主義教育はよくないみたい」という印象が広まったのではないか。

また、日本で80年代後半から盛んに提唱されてきた「個性重視」とも無関係ではないのだろう。「集団」よりも「個」を育てるという方向に大きく舵が切られたということである。学級「集団」を育てる集団主義教育が後退していったのは自然な流れだったのかもしれない。

さらには、全生研の方法論が「競争原理」を採用していたということも、小学校などを中心に「学校現場に競争を導入しない」という動きの中で、集団主義教育が退潮していった大きな要素であるのかもしれない。

ただし、(これも印象論であるが)「学級づくり」がまともに研修されなくなっていくのと、子どもたちの人間関係調整力(コミュニケーション能力)が問題視されるようになっていくのとは、時期を一にしているような気がするのである。同時に、クラスのことを第一に考えるような教員が周囲から消えていったような気がする。

今や、学級内で「なぜ班を組織するのか」という議論なく班が編成され、教師もその班を「学級づくり」の機能としてどのように生かしていくのかという視点もなく、日常的には生活班として学級内に班が設置される。したがって班員相互のコミュニケーションも組織されることはなく、生徒一人一人が学級という織物の糸の結節点になっていかない。いじめや学級崩壊は、ある意味で起こるべくして起こっているのかもしれないのだ。

学級づくりにおいて大切なことは、「生徒一人一人をテクスチュアとして絡ませることで、自らを生成し、自らを織り上げていく」ということである。それは同時に、「コミュニケーションの回路を開く」こと、言葉のやりとりの中からコミュニケーションを「解錠」する(@『先生はえらい』)ことにもつながっていくであろう。鹿嶋先生の実践は、何よりもそのことが意識されている。

実は、手前も生徒指導主事として2年目を迎えるということもあり、少しは学校のためになることをしなければとの思い已まず、今春から本校の教員を対象に「生徒指導だより」を発行することにした。しばらく担任をやっていなかった年配の先生や、新採2年目で初めて担任をする先生たちのために、少しでも今まで自分が蓄積してきたノウハウ等を提供していこうと思ったからである。

2回目の職員会議で「原則として週刊」と言明したにもかかわらず、つい3号も立て続けに作ってしまった。もちろん、「プロフェッショナル」が刺激になったということもあるが、今こそ「学級づくり」の大切さを再認識すべきではないかとも思いが強い。幸い、本校職員にはだいぶん好評であった。気をよくして、支部会員たちにも配布することにした。何せ、「ちょんぼ」シンムラくんなどは今年から初めて担任を持つのである。少しでも援護射撃になればと思っている。

シンムラくん、がんばるのだぞ。