教師は何のためにいるのか?

2月12日(月)

学年末試験が終わったある日、職員室でA子さんのことが話題になった。A子さんは、残念ながら教室に入ることができず、週に2日ほど登校して別室にて授業を受けている生徒である。
「ねえ、見て見て、A子さんこんなに点数取ったわよ!」と社会科担当教諭。
「数学もけっこうできてたよ」と数学科担当教諭。
「毎日学校へ来てても、A子さんよりテストが悪い人たちって、いかに授業をいいかげんに受けてるかってことだわよねえ」
「そうだね、まったく教室で授業を受けなくても、これだけの点数が取れるってことだからねえ」

そんな会話を傍らで聞きながら、「ったく、何やってんだろうな、授業を受けてない生徒よりもテストができないなんて、おかしいじゃないかよお」と思ったのは束の間、「ちょっと待ってよ、それってけっこう重大な問題なんじゃないだろうか?」と思ってしまったのである。

確かに、きちんと毎時間教室で授業を受けてはいても、テストの結果が思わしくない生徒もいる。しかし、問われているのは、そんな生徒たちの授業を受ける際の態度や学習方法のことではなく、実は教師そのもの、さらに言えば近代の学校制度そのものが問われているのではなかろうか。

教師に問われていることの一つは、「教師って必要なの?」ってことだ。ほとんど授業を受けなくても、自習によってテストにも解答できるとするなら、教師が授業をとおして生徒に教えることとはいったい何なのだろう。

もう一つは、「授業って何?」ということである。教師は授業で何を教えるのであろう。よく言われるのは、「教科書を教える」のではなく、「教科書で教える」ということだ。教科書「で」何を教えるのか?教科書に書いてあることを教えるのはもちろんのことだとするなら、さらに何を教えるのか?

さらには、「学校制度」のことである。「学校って、行かなくちゃいけないの?学校へ行かなくたって、家で教科書を一通り読めば、その内容は理解できるよ。参考書やインターネット等を利用しても学習はできるじゃない」という問いには、どう答えればいいのだろう。

「学校へ行かなければ、社会性が育たない」とでも答えるのであろうか?現実には、学校を卒業しても「社会性が身に付いていない者」はいくらでもいる。そもそも、学校は(社会性の定義にもよるのだろうが)「社会性を育てること」が、その存在の第一義ではあるまい。

4月から正式に実施される特別支援教育は、A子さんのように教室に入りたくても入れない子どもたちにも、その支援策を考えていくということである。多様性を認めていくということだ。それはそれで、必要なことと思う。同時にそれは、文科省が気付いているかどうかは知らないが、学校や教師というものの根本を問い直していくということになろう。

そもそも、教師は、学校は必要なのであろうか?

敢えて「然り」と答えたい。

内田先生は、その著『先生はえらい』や、近著『下流志向』の中で、「師弟関係」について言及されている。
「師弟関係で重要なのは、どれほどの技量があるとか、何を知っているとかいう数量的な問題ではないんです。師から伝統を継承し、自分の弟子に伝授する。師の仕事というのは極論すると、それだけなんです。」(『下流志向』)

「やっぱり、教師は必要だし、学校も必要です」といわれる所以は、そこで「師」と出会えるかもしれないということなのである。もちろん、学校へ行かなくても「師」と出会えないわけではない。しかし、だからこそ「学校」というところを、「師」と出会う場としたい。

そのためには、「学校」の「教師」が、常に「教師は必要なのか」、「学校は必要なのか」と問い続けていくことが必要であると思う。そのことを忘れ、教師が自らの存在や「学校」というものを当為のものと考えてしまうこと、それこそ、私たち教育という仕事に口を糊させていただいている者の、最も戒めなければならないことと思う。