スーさん、啖呵を切る(人を求める)

1月25日(木)

校内研修で「読解力」のことが話題になった。

OECDが03年に実施した第2回PISA(国際学習到達度調査)で、日本の子どもたちには「読解力」が十分身についていないとの結果を受け、「今後早急に取り組まなければならない教育課題」(@文科省)として、その具体的方策が模索されているとのことである。

PISAとは、「OECD加盟国の生徒の学習到達度調査のこと。Programme for International Student Assessmentの頭文字を採ったもの。OECD加盟国の多くで義務教育の修了段階にある15歳の生徒を対象に、読解力、数学的リテラシー、科学的リテラシーを調査するもの」(@Wikipedia)のことで、先進工業国の教育政策の効果を測り、政策立案に役立つ国際指標として周知されているものらしい。

具体的には、「現代社会では、経済や社会の情勢の変化に対応できる能力を身につけた人材が望まれる。変化に対応するには、持っている知識の量ばかりでなく、活用能力が重要」との観点に立ち、「学校で得た知識を、実生活でどのくらい活用できるか、人生の様々な場面で遭遇する課題を解決する能力を調べる」らしい。

では、日本の子どもたちにはあまり身に付いていないと判定された「読解力」とは、いかなる能力のことか。本校の研修資料(研修主任がインターネット等から蒐集したもの)には、以下のように書かれていた。
「自らの目標を達成し、自らの知識と可能性を発達させ、効果的に社会に参加するために、書かれたテキストを理解し、利用し、熟考する能力のこと。文字だけでなくグラフ、図表まで含めた資料の意味を読み取り、解釈し、評価する力。国語の読解力とは違う。」

どうやら、従来の学習指導要領で求められてきた「生きる力」とよく似たものらしい。となると、話はややこしくなってくる。この「読解力」なるものを、従来の「ゆとり教育」的文脈でとらえるのか、「学力向上」的文脈でとらえるのかということで、その具体的方策が微妙に違ってくるのではないかと思われるからである。と言うのは、今般の教育再生会議では「学力向上」のために、「ゆとり教育見直し」が提言されているからだ。

「変化に対応する能力」だとか「知識の量ばかりでなく活用能力が重要」などという文言を見れば、「なーんだ、これって総合的な学習の時間で求められてることじゃん」と思われよう。そういう理解でいいと思うのだが、これに「学力向上」が絡んでくると、その要請とどう折り合いをつけていくのかということが難しくなってくる気がするのだ。「ゆとり教育」を見直すのであれば、当然「ゆとり」によって創設された「総合的な学習の時間」についても、その存続の是非が問われるようになるであろうと思われるからである。

そもそも、「総合的な学習の時間」については、創設当初からその運用についての理解が区々であったと思う。某地方教育行政の長などの中には、「総合の時間には補充学習をやったっていいんだ」などと言っている方もいるそうだ。現場の運用が混乱しているのは言を俟つべくもない。「総合的な学習の時間」が特設されたのは、02年の学習指導要領からである。そんな経緯で始められたのであるから、当然、翌年実施されたPISAにその成果を期待するということ自体に無理があろう。

現今の教育再生会議では、何より「ゆとり教育の見直し」が掲げられている。そうすると、その「ゆとり教育推進」の文脈で語られてきた「読解力の育成」についても、「いや、そんなことより基礎学力の充実が先だ」という議論の中で、「ホントに文科省は読解力を育成する気あんの?」というムードが支配的になり、その狭間でまたぞろ現場が右往左往することが危惧されるのである。

前にも書いたが、学校で教えるのは「文化」である。もちろん、学校で学んだことがすぐに社会に出て役に立つものもあるが、そういう知識ばかりを教えているわけではない。現代のように、それぞれの仕事がかなり専門的に特化している社会では、たとえ大学を出たからと言って「即戦力」とはいかないというのが一般的な理解である。だから、その「即戦力」養成のために専門分化した学科を用意している大学等もあるようだが、はたしてどれほど「即戦力」となっているのかは、具体的な調査結果等に接したことがない。

学校は、例えて言うなら、子どもたちが将来芽を出し茎を伸ばして花を咲かせ実らせるために、まずはその根を十分に発達させるようなところではなかろうか。そうして、「学校」というところから「植え替えられ」ても、その土地土地の状況に応じて成長させていくことができるような「体力」を身につける場所ではなかろうか。その「体力」とは、リベラル・アーツであると思うのだが。

もう一度「読解力」に話を戻す。どうするか。特に、何か特別な取り組みをしようとしなくてもいいんじゃないの?と思う。どうやら教科の授業時数は増加するようである。教科の指導において、今まで「ゆとり教育」実践のために削られてきたそれぞれの教科の「発展学習」を充実させていくことで、「読解力」は十分に身につけていくことができると思う。「知識の量ばかりでなく活用能力が重要」などと言っても、その元になる「知識」がない状態では、「活用」しようとしても限界があろう。

やれやれ。文科省のお役人の中には、破れ傘刀州(←古いねえ)よろしく、「あのなあ、ちょっとテストの結果が悪かったからって、そんなことに目くじら立てんじゃねえよ。だいたい、中学卒業時の子どもが『経済や社会の情勢の変化に対応できる能力を身につけ』てるわけなかろうが。そんなのは、テストが悪いんだよ!」と啖呵切れる人っていないのかなあ。