教育再生会議にひとこと

12月4日(月)

政府の教育再生会議がいろいろと今後の改革案を提案しつつあるようだが、どうも「?」と思えるような内容が多くて、「それでホントに大丈夫なの?」って感じがしているのは手前だけであろうか。

例えば、「いじめ問題への緊急提言」中の以下の部分。
(2)学校は、問題を起こす子どもに対して、指導、懲戒の基準を明確にし、毅然とした対応をとる。
(4)教育委員会は、いじめにかかわったり、いじめを放置・助長した教員に、懲戒処分を適用する。

子どもへの「毅然とした態度」は、既に現行法(学校教育法)に規定されている。
「校長及び教員は、教育上必要があると認めるときは、文部科学大臣の定めるところにより、学生、生徒及び児童に懲戒を加えることができる。ただし、体罰を加えることはできない。」(第11条)
「市町村の教育委員会は、(…)性行不良であって他の児童の教育に妨げがあると認める児童があるときは、その保護者に対して、児童の出席停止を命ずることができる」(第26条)

問題は、「懲戒の基準を明確に」というところか。でも、どうやって「基準」を作るのだろう。そもそも、いじめの、特に加害生徒をはっきりさせることというのは、とても難しいことなのである。
「キミ、ナガミツくんをいじめてるそうじゃないか」(←ってこんな訊き方しないけど)
「いいえ、そんなことしてません」
「だって、キミがいじめてるとこ見たっていう生徒がたくさんいるんだぞ」
「してませんよ、一緒に遊んでただけです」
こういうやり取りになると最悪である。たぶん、その日のうちにその保護者から電話が入る。
「先生、ウチの子どもがいじめをしてたんですって?うちの子はしてないって言ってるんですけど。いったい、どうなってるんですか?いじめてないって言ってるのに、犯人扱いみたいにされて。ウチの子はもう学校行きたくないって言ってるんですけど。」

毅然とした態度を取るどころか、逆にひたすら平身低頭しなければならなくなってしまうということだってあるのだ。そのくらいに、加害生徒をはっきりさせるというのはデリケートなことで、いかな「懲戒の基準」を作ろうとも、そのことで加害生徒への指導がしやすくなるということはほとんど考えられない。ということは、この提言も有名無実になってしまうのではないかと思うのだ。

また、(4)の教員への懲戒処分であるが、いじめを助長したという教員に懲戒が加えられるのは当然のことであろうが、「放置した」ということで処分されるというところが気になる。いじめを放置してよいなどと思っている教員などいるはずがない(と思いたい)。何とか一生懸命対処しようとしているうちに、さらにいじめがエスカレートしてしまい、その結果「放置した」と教員が処分されるのは、どうにも理不尽なことであるような気がするのだが。

さらに、次のような新聞記事。
“学校教育の改革を協議する第1分科会は30日、中間報告の素案を公表した。「不適格教員を排除するため、あらゆる制度を活用する」との姿勢を打ち出し、保護者や児童・生徒が教員評価に参加する第三者評価を打ち出した。”(毎日新聞)

これは、現場からはおよそ受け入れられない提言ではあるまいか。生徒が教員を評価するというのは必要なことかもしれない。しかし、そのことが必要以上にアピールされるようになると、生徒指導担当などで校内での「叱り役」を引き受けている教員などに対して、「あの先公、ムカつくんでみんなで評価低くしようぜ」と企む生徒が出てくることだって考えられる。「それは指導が悪いからそうなるのだ」と言われるかもしれない。でも、まだ発達段階にある生徒に、大人を評価しろということ自体無理があるのではないか。評価するにしても、せめて授業についての評価くらいに止めておいた方がいいのではないか。

さらに保護者からの評価である。今でさえ、学校は保護者には多大な配慮をしている(はずだ)。何か訴えがあれば、すぐに対応する体制ができている(はずだ)。この上さらに、保護者に教員を評価してもらうことで、どんなメリットがあるというのだろう。そもそも、評価をするだけの情報を保護者がどれだけ持っているのだろう。保護者は毎日学校へ足を運んでいるわけではない。いきおい、教員に関する情報のほとんどは、子どもからの情報になるだろう。あるいは、年に数回の授業参観、数回の三者面談時の印象か。とにかく、学校(教員)が今まで以上に保護者に気を遣うようになることだけはまちがいない。

生徒や保護者に評価をしてもらうことが、いいとか悪いとかいうことではない。手前が心配するのは、そうやって評価で縛られることによって、いつも子どもや保護者、教育委員会のことを気にしながら指導する教員が増えてきはしまいかということである。それって、本当に子どもや保護者のためになることなのだろうか。

もちろん、今まで教師であるということに胡座をかいて、邪知暴虐の限りを尽くしてきた教員もいるかもしれない(「お前がそうだ」って言われそうです)。でも、大多数の教員は、何より子どものことを第一に考えて日々の教育活動に精励恪勤してきただろうし、今もそうであろうと思う。

教員は、良くも悪しくも誇り高き生き物である。縛ろうとすればするほど、その抵抗は大きいであろう。今回の教育再生会議に、現場の教員がどれだけ参加しているのかは寡聞にして知らない。はっきりしていることは、現在の子どものことは、その現場の教員がいちばんよく知っているということである。その教員たちを気持ちよく働かせるにはどうすればよいのか。再生会議のお歴々には、そのことをまず第一に考えられた方がよいのではないか。

「現場の教員が信用できないから、こうして対応策を考えているのだ」とおっしゃるかもしれない。でも、その現場の教員を動かす最もよい方法は、その現場を預かる教員たちを、いかにディセンシーをもって遇するかということである。現場の教員たちに、「ノーブレス・オブリージ」を喚起させること。それなくして、現場の教員は動かないであろうと思う。

再生会議がいかな提言を打ち出そうとも、それが教員たちに枷を嵌めるようなもの、教員たちの意識を逆撫でするような、その誇りを貶めると感じられるようなものであるかぎり、その提言は画餅に帰するであろうことは必定、再生会議は実質的な成果の得られないままに閉会せざるを得なくなるのではないか。どうかご再考いただきたいと願うばかりである。