11月13日(月)
このところ、メディアは毎日のように中高生のいじめによる自殺を報じている。
「現場の教員はこの事実を真剣に受け止めるべきだ、全国にはこんなにもいじめで悩んでいる子どもたちがいるってことじゃないか!」
「教育現場が荒廃していることの証左だ」
「学校に通う子どもたちには、それだけストレスが溜まってるってことなんだ」
「そのストレス発散の対象として、おとなしかったり、ちょっと気の弱い子どもたちがいじめのターゲットになっているじゃないか」
「先生たちは、そんな子どもたちを守ってやってるのか?」
「先生の目の届かないところで、密かに陰湿ないじめが進行しているんだろ?どうして気がつかないんだ?」
「守ってやるどころか、先生が率先していじめを助長しているってことだってあるじゃないか!」
「いじめられている子どもたちは、自らの命と引き換えにいじめをなくしてほしいって訴えてるんだ!」
そんなメディアの声が聞こえてきそうである。
おっしゃるとおり。返す言葉もない。でも、敢えてメディアの方々にお願いをしたい。もうこれ以上、いじめが原因と考えられる自殺についての報道は、自粛していただけないだろうか。
確かに、子どもが自らの命を絶つというような悲愴なことはあってはならないことである。その原因と考えられることが、いじめであるということも、学校はもちろん社会全体が考えなければならないことであろう。ましてや、教師の心ない言葉がいじめのインセンティブになるようなことは沙汰の限りだろうし、学校の現場を預かる教師としては、それらの声に真摯に耳を傾けなければならないであろう。そうして、これ以上いじめによる自殺者が出ないよう対応していかなければならないであろう。
メディアが、いじめによる子どもの自殺という事実、そしてそれを助長しているかのような教育現場の等閑ぶりを世に問う目的で報道したくなる気持ちもわからないではない。しかし、賢明なるメディア諸兄姉のことだろうから、発達段階にある子どもたちが、メディアの報道に接してそれと同様な行為に及ぶことがあるということくらいは、知悉されていることであろう。そして、それも十分に勘案された上で、「しかしこれは断じて報じなければならない」というメディア人としての使命感のようなものに突き動かされての報道であろう。
でも、もう報道はやめてほしい。これ以上子どもたちの自殺者が増えるような要因をつくってほしくない。メディアに関わる人たちも、「いじめによる子どもの自殺者が増えること」を望んではいまい。何をもって「メディアの良心」と言うのかはよく知らないが、少なくともこれ以上の報道は、いたずらに自殺を幇助するだけの結果をしかもたらさないような気がするのである。
現場の教師としては、文科省の主導で行われてきた「心の教育」だけでは、いじめによる自殺に十分対応できないということも肝に銘じるべきであろう。内田先生は、ちょうど昨年の11月の日記で以下のように書かれている。
“想像力の弱い人間は、個体としての自分の死さえうまく想像することができない。
成長し、さまざまな経験を重ね、愛したり、憎んだり、出会ったり、別れたり、得たり、失ったり・・・気の遠くなるほど長い歴程の「後に」、老いたり、病んだりして、いままさに死のうとしているときの「私の気持ち」を想像することができない。
そういう想像力の弱い人間であっても、「死んだ私」を想像すること抜きには、「いまのリアリティ」を確保することができない。
想像力がないために「今の私」とはまったく別の人間となった「私」を想像できない人間が想像する「死んだ私」というのは、「今の私のままの人間が死んだときの私」である。
それは成長も経験も出会いも変化も加齢も何も起こらない「無時間的な人生」が終わる瞬間の私である。
「無時間的な人生」というのは論理矛盾だが、ひとつだけそれを具体化できる契機が存在する。
自殺である。
自殺というのは「今の私」という無時間的存在者が、「今の私ならざるもの」へと私を拉致し去るかもしれない時間を支配し返すための唯一の方法である。
わかりにくくてすまない。
とにかく、「今の私」のままで「私という物語」を最後まで読み終えたいと願う人間には、自殺という方法がある。
あるいは、自殺という方法しかない。
それゆえ、「今の私」であることに固執し、かつ「今の私であることのリアリティの希薄さ」に耐えられない人間は、「今の私のまま死んだ私」という想像的消失点を立てることでかろうじて、今の無意味さと非現実性に耐えることができる。
だから、自殺サイトが繁昌する。
逆説的な話だが、「今この瞬間をやりすごすためには、自殺することを想像するしかない」という事況は「よくあること」なのである。
それは想像力の不足がもたらす出口のないループである。”
想像力の不足ということで言えば、社会的な経験も乏しい子どもたちが、より「死に近い存在」であるということは言えよう。また、刹那的な快楽の追求だけが「今を生きる」ためのイデオロギーとして子どもたちの間に親炙されるようになってからかなりの時間も経っている。そんな子どもたちの現状を鑑みるとき、「今の私とは全く別の人間となった私」を想像できるようにするということ自体が困難なことでもあろう。
現場の教員としてできることは、日々の教育活動のあらゆる場面で、子どもたちが「昨日の自分とは違う自分」になっているということを発見させていくことであろうか。「先生、わかった!」「ボクもその気になればできるんだね」という自覚へ至らせるための導き、子どもたちが自らの成長を実感できるような実践を積み重ねていくしかないのであろう。
少なくともそれは、今の政府が焦眉の急として成立させようとしている教育基本法の改正とは、最も遠いところにあるものであるとも言えよう。とにかく、自分にやれることから地道に取り組んでいくしかない。