スーさん、校長の知的条件について考察する

10月9日(月)

“北海道滝川市の小学校の教室で昨年9月、6年生の女児(当時12歳)が首をつって自殺を図り、死亡した問題で、同市の田村弘市長と安西輝恭教育長らは5日夜、遺族宅を訪ね、いじめを認めなかったこれまでの対応や女児の自殺を防げなかったことについて謝罪した。(中略)女児は昨年9月9日朝、江部乙小の教室で首をつり、4カ月後の今年1月6日に亡くなった。教壇に残された7通の遺書には「みんなに冷たくされている」「『キモイ』と言われてとてもつらくなりました」など、同級生からのいじめを疑わせる記述が多数あったが、市教委はこの1年余、「自殺の原因は特定できない」といじめを認めなかった。
5日に開かれた臨時の教育委員会議で「遺書の内容を踏まえ、いじめであると判断する」と、これまでの見解を一転させた。”(毎日新聞)

よくわからない。

どうして女児の自殺から1年以上経っての謝罪になったのだろう。報道にあるように、自殺の原因が特定できなかったからか。しかし、女児が縊死した教室の教壇には遺書が残されていたそうだ。それを学校関係者が誰も目にしていないなどということは考えられない。

その間の詳しい事情はよくわからないが、はっきりしていることが一つある。それは、学校・教育委員会側で、自殺に直接的に結びつくと考えられる情報(遺書等)が、(意図的であったか無意識にであったかは別にして)チェックされなかったということである。そうして、(ほとんど想像できないことではあるが)そのチェックに1年以上を要したということである。

学校現場で何か子どもに関わる事件や事故が起こった際、学校の情報伝達は以下のように行われる。
まず、その事件事故に直接関わった教員が、一部始終を教頭または校長に報告する。
次に、校長は教育委員会にその顛末を報告する。必要に応じて、PTAや自治会にも連絡をする。
だから、具体的な対応についても、当面は校長の指示、経過に伴い、教育委員会の指示にも従って行われるということになる。

今回の事件のように、遺書等に関わる情報のチェックが不十分であったということは、情報伝達のいずれかの段階で、チェックが漏れていったということである。具体的には、関わった教員か、校長か、教育委員会かということである。いずれにしても、そのチェックの遺漏に関しては、ことの重大さを勘案しても、現場教員を監督する校長と、所轄する教育委員会の失は責められても仕方のないことであろう。

学校もご多分に漏れず、タテ社会である。教員は校長の、校長は教育委員会(行政)の指示に従わなければならない(地公法第32条「法令等及び上司の服務上の命令に従う義務」)。もちろん、それに伴う責任も発生するわけであるから、今回のように最終的には行政が謝罪という形を取ることになるのであるが、現場の教員としては些か気になるところがある。

責任の所在をはっきりさせることは大切であろう。そうして、それに伴う処分が行われるのも致し方ないことであろう。地公法では、その「職責を果たせない場合」には「分限処分」(重い順に、免職、降任、休職、降給)が行われることになっている(第27、28条)。しかし、その前に校長なり行政職なりの適格性をチェックする機能はあるのだろうかという疑問である(あるのかもしれないのだが、手前は無知である)。

今、巷間では「指導力不足教員」についての議論が喧しい。従来の勤務評定とも関連させつつ、今後はその結果を給与にも反映させていく(成果主義)という動きも出てきている。もちろん、いい加減な授業を行い、分掌事務もまともにできない教員がいるであろうことは否定しない。しかし、事に臨んで適切な指示も出せず、文書事務も部下に任せっきりにしている教頭・校長がいることもまた事実であろう。一般教員の「指導力不足」をチェックするのなら、管理職にもその適格性をチェックする機能があってもいいのではないか。

あまりこんなことは書きたくはないが、仄聞するところによれば、本市にも女性教員へのセクハラ言動(「あんた胸小さいねえ」などの発言、酒の強要)や、酒席での教員への暴言がひどい校長もいるらしい。でも、「オレは新聞社にも知り合いが多いから、タレ込んだっていくらでも握りつぶせるんだよ」とか、「行政の人間とは月に1回飲んでるから、オレの息のかかった教員をいくらでも集めることはできるんだ」などと宣わっているとのことである。いくら酒席でのことであったとしても、許される発言ではなかろう。
「そんなひどい校長なら、組合とかに実態を言って、何とか善処してもらうようにすればいいじゃない」と言うと、その実態を話してくれた先生は、「でも、みんな職場に波風立てたくないし、もしもそんなこと言って自分に何か不利なことされたりしちゃイヤだって我慢してるんですよね」と力なく言った。言葉もない。

カール・ポパーは、その著『開かれた社会とその敵』(内田詔夫・小河原誠訳、未来社刊)の中で、以下のように述べている。
“知的卓越性の秘密は批判精神であり、知的独立ということである。そしてこれはどんな種類の権威主義も乗り越えられられないことが示されるはずの困難に通じるものである。権威主義者は一般に、自分の影響力に服従し、それを信じ、それに応える者たちを選抜するであろう。だがそうすることで、彼らは凡庸な者たちを選ぶことにならざるを得ない。というのも、彼は自分の影響力に反逆し、それを疑い、あえてそれに抵抗する者を排除するからである。権威者は知的に勇気ある人々、すなわちあえて彼の権威を拒む人々が最も価値のある型であるかもしれないということを認めることができない。もちろん権威者は常に、自発性を探し出す能力があると確信し続けるであろう。だがこの際彼らの意味するものは、自分たちの意図を素早く察知することにすぎず、彼らは永遠にその違いに気付くことができないであろう。(…)軍隊での昇進の方式では、あえて自分でものを考えようとする者が通例排除されるようになっている。知的自発性に関する限り、服従において優れた者が指揮においても優れているという考えほど真相から離れたものはない。”(第1部第7章「指導者の原則」138p)

教育現場がタテ社会であることは致し方ない。でも、少なくとも「軍隊」ではないはずだ。実際の現場を掌る校長には、その管理能力もさることながら、何より「知的卓越性」や「知的自発性」こそ求めたい。しかし、それはポパーの言うように「権威主義」とは相容れないものである。行政が権威主義に陥り、「自分の影響力に服従し、それを信じ、それに応える者たちを選抜」した結果、その「権威主義」にどっぷりと浸かった校長ばかりが送り出されてくるのでは現場はたまらない。

今回の滝川市のことも、そんな「権威主義」の悪弊とは無関係であったと信じたい。でも、そうやって教育現場にいつまでも「権威主義」が蔓延っているのなら、それは排除していかなければならないのではないか。

ポパーの言葉を再度噛みしめたい。
「絶対権力を与えられて堕落しない性格の人物を見出すことは困難である。アクトン卿が言っているようにーすべての権力は腐敗し、絶対権力は絶対に腐敗する。」