校長のリーダーシップとは

4月17日(月)

東京都が「職員会議での挙手、採決を禁止」する通知を出した(@4/14毎日新聞)そうだが、その新聞報道に接して、「ん?」と思うことがいくつか。

東京都の先生たちって、職員会議でホントに「挙手」による「採決」をしているのだろうか。

そもそも、「職員会議」は学校における「議決機関」ではない。『学校教育法施行規則』によれば、職員会議については「校長の職務の円滑な執行に資するため、職員会議を置くことができる」と規定され(第23条の2)、「職員会議は、校長が主宰する」と定められている。だから、いくら職員会議で先生たちが「こうしましょう!」と「決定」しても、校長から「ダメ、ダメ!絶対にダメ!」と言われれば、そのことは決定事項とはならないのである。こんなことはあまり言いたくはないが、生徒たちに「法の遵守」を説く立場にある教員が、自ら国法を犯すようなことをしていたということなのだろうか。

もちろんそんなことは十分承知の上で、それでもなおかつ職員会議で「挙手による採決」をしているというのも、はたしていかがなものであろうか。だってねえ、それじゃあクラスで「今度の学級レク何にしますかあ」って「挙手」で「採決」している中学生たちと変わらないじゃあないですか。縦しんばそうであったとしても、重要案件を「挙手」で「採決」するというというのが「民主的議決方法」と考えているとするなら、それはちょっと慮りに欠けると言わざるを得ないのではなかろうか。

また、「主任教諭の選任」も「職員会議の場で多数決によって決められていた学校が十数校あった」と報じられていたが、東京都の学校は「主任」も多数決によって決められていたのだろうか。

「主任」(教務主任・学年主任)についても、件の『学校教育法施行規則』にはちゃんと規定されている(第22条の2)。手前が任命されている「生徒指導主事」も第52条の2に、「保健主事」(第22条の4)や「進路指導主事」(第52条の3)もそれぞれ「校長の監督を受け」という条件が付いて、それぞれ規定が明記されている。任命は、「校長の意見を聞き」、市町村の教育委員会によって行われる。東京都では、それぞれの「主任」についても、職員会議で先生たちの「挙手」によって「採決」され、それを校長が教育委員会に意見具申して任命されていたのだろうか。限られた紙面での新聞報道だけでは、その辺の事情がどうもよくわからない。

さらには、職員会議での「採決」ではなく、「主幹教諭らによる企画調整会議を学校経営の中枢機関とし、十分な議論を行う場とする」と通知されているそうだ。でも、そんなことは国法のどこにも規定されてはいない。「通知」に法的な拘束力があるのかどうかということについては寡聞にして知らないが、どうやら「準法律的行為」と認識されているようだから、罰則規定はないにしてもそれなりの拘束力はあるということなのだろう。

本市においても、職員会議に提案する案件については、事前に「企画調整会議」(運営委員会または企画委員会)において審議することになっているから、確かに「学校経営の中枢機関」とも言えるのだろうけれど、どうしてそのことをわざわざ「通知」しなければならないのだろうかというところが、どうもよくわからない。東京都では、そういう慣例がないということなのだろうか。

それについて、4月15日(土)付けの毎日新聞社説は、「大人げない」「あまりにも幼稚な発想」「理解に苦しむ」「過剰な締め付けは教育現場を萎縮」と評していた。まあ、一般的な印象としてはそう感じるのも宜なるかなというところか。

それにしても、肝心の東京都の校長先生たちは、はたしていかがな学校経営をされているのだろうか。

どうも、今回の報道から察すると、わざわざ今回のような通知を出さなければならないほどに、①あまりに校長の言うことを聞かない教員が多く、教育委員会との板挟みに悩む苦しむ校長、②教員たちの「自主性を尊重する」とアナウンスし、教育委員会の意向は聞き流しながらすべて教員たちにお任せ状態で、「君臨すれども統治せず」を実践している校長、の相反する校長の姿が思い浮かんでくる。

その甲乙を問うわけではないが、いずれにしても、今回の通知で図らずも東京都が校長の「リーダーシップ」というものをどのようなものであるととらえているのかは明らかになったであろう。「ええい、つべこべ言うんでねえ!おらの言うことに黙って従ってりゃいいだ!」という強権的な校長こそ、東京都が求めているリーダーだということである。

でもねえ、リーダーというのは、いろんなタイプがいてこそいいのではないか。「学校の特色」などと言われるが、いろいろなタイプの校長が、それぞれ持ち味のリーダーシップを発揮して学校を経営していくからこそ、その「学校の特色」というものも出てくるのではないか。おしなべて、トップダウンばかりのステレオタイプの校長ばかりを揃えた学校というのは、ちょっと想像したくないほど不気味である。

これも、昨今の「まず改革ありき」という世の趨勢を受けての現象の一つと言うべきなのであろうか。東京都では、声が大きくて押し出しのある、どちらかといえば「体育会系」の校長こそが求められているということなのだろう。でも、ほんとうにそれで学校現場はうまくいくのだろうか。リーダーシップというのは、そういうことなのだろうか。

内田先生は、「フェミニンな時代が到来する」と書かれている。かのゲーテも、『ファウスト』の最終場面で「永遠に女性的なるものが、我らを高みへ引きゆく」と書いているではないか。これからの時代に必要とされているものは、きっと「体育会系」のリーダーシップとは異なるものなのだろう。

幸い、本校の校長先生は、音楽科出身の感性豊かな、穏やかな中にも芯の強さを秘めた、褒め上手の先生である。生徒へ話をされるときも、静かに、しかし心に残るお話をされる。生徒だけでなく、教員も、その人となりに自然と仰望するようになってしまうのである。リーダーとは、かくあるべしと思う。

日本の首都の教育現場は病んでいるのだろうか。