スーさん、教育現場の若者たちのために憤る

4月24日(月)

「脱工業化」に伴う「外部労働力」導入の波は、学校現場にも押し寄せているのか。

今までほとんど気にとめたことはなかったが、よくよく考えてみると「それってちょっとヘンじゃないの?」と思わせられることが学校にはある。

「講師」(特に常勤講師)のことである。

「確かな学力」育成のため、英語・数学を中心とする少人数指導が推奨され、そのための教員の加配を希望する学校も多いことだろう。その際、もちろん正規の教員を加配してもらえる場合もあるが、どちらかと言うと、1年契約の「常勤講師」が付けられるケースの方が多いのではないだろうか。

それはそれでいいのであるが、その「常勤講師」の扱いがどうも妄りであるような気がするのである。

たとえば、こういうことがある。「この4月から、新任職員として新規採用教員が来ることになった。ついては、新採教員は研修で大変だから学級担任は外し、常勤講師に担任をやってもらうことにしよう」という校内人事を行う、というようなことである。

よく考えるとおかしいでしょ?

教育委員会に講師登録している人たちというのは、残念ながら教員採用試験に合格できなかったため、晴れて合格できるまで教育の現場で経験を積みながら、採用試験のための勉強もしていこうという若者たちが圧倒的である。一方、新規採用教員というのは、その厳しい採用試験を見事にクリアして、名実ともに「教員にふさわしい」と判定されて学校の現場に派遣されている。新規採用教員の研修は手厚い。何より、予算がかけられている。校内のみならず、校外からも指導教員が派遣され、週に1回の研修が義務づけられ、学級経営から教科指導まで、微に入り細を穿って教員として必要とされるあらゆることが伝授される。さらには、校外での宿泊泊を伴う研修や民間企業での体験など、いろいろな経験を積みながら教師としての幅を広げられるような研修が組まれている。そのことだけを考慮しても、「学級担任」をどちらが担うのかということについては、言を俟たないであろう。

また、こういうこともある。ご多分に漏れず、教育現場も高齢化している。子どもたちにしてみれば、50歳を過ぎた教員に担任をしてもらうよりは、たとえ講師であっても、若い先生に担任をしてもらう方がいいだろう。そうすると、いきおい高齢高給の正規教員ではなく、若い講師へと担任の白羽の矢が立つことになる、というようなことである。

何のための正規教員なのか?ほんとうにこれでいいのだろうか?

諸事情で、常勤講師の先生に担任をしてもらうこともあるだろう。でも、たとえば今春大学を卒業したばかりの常勤講師というのは、教育実習での経験しかない。そうして、「あなたは若いんだから学級担任をお願いね」などと言われて、「は、はあ、わかりました」と引き受けたのはいいが、具体的な学級経営のことやら教科指導のことやらをしっかり研修もしないままに、毎日子どもたちの顔を合わせなければならないということが出来してくる。それで、学級崩壊などを引き起こした場合、そういう校内人事を行ったことについては、その責が問われないのであろうか?

もちろん、講師の中には優秀な人材が数多くいる。それは、浜松支部の「下野国」ことヤイリくんの例を俟つまでもない。「こういう人にぜひ教員になってほしいよなあ」という若者はたくさんいるのだ。手前の知っている限り、彼らはけっして一時の「腰掛け」などと考えていい加減に仕事を行ったりはしなかった。あらゆる教育活動に、真摯に取り組む若者がほとんであった。でも、そんな彼らに必要最低限の研修すら義務づけられてはいないのである。

もちろん、講師とて研修はある。でも、その研修は年にただ1回、それもほぼ1年を経過しようとする時期になってからである。いくら講師とは言え、これでいいのだろうかと思ってしまうのは手前だけであろうか。

実際、講師(特に常勤講師)は現場で大きな戦力となっていることが多い。数年にわたって講師としての経験を積んでいる若者などは尚更である。ということは、学校が彼らに負っているところを徒や疎かに思うことなどできないということなのである。

そんな彼らが、一日も早く新規採用教員として学校現場へと出向けるよう研修を行うというのは、けっして無駄な投資ではないような気がするのだが。

未来ある若者、特に教育の現場に身を置きたいと望んでいる若者たちを、「講師」という名の下に恰もフリーターを扱うように遇していいはずはない。たとえその若者が将来教員にならなくとも、そんな志を持った若者に、教師という職業の専門性を具体的な研修をとおして知ってもらうことは、無駄なことではないと思う。

「行政にはそんなことに使える予算などない」というのであれば、われわれの給与からその一部を拠出して、「講師研修基金」とでもいうようなものを設立したっていいではないか。実際、教育現場に講師の存在が必要不可欠なものであるのなら、そしてそのことが将来の日本の教育を担っていく若者たちを育てていくことになるのなら、それくらいのことは何でもないことだと思うのだが。