スーさん、消えゆく教員文化に涙する

11月22日(火)

日曜日、近くの学校で女子テニス部の顧問をしている先生と、その学校の生徒さん数名が来校し、本校の部員たちと一緒に練習を行った。

手前のように、女子テニス部の顧問を20年以上もしていると、「一度先生の学校の練習を見学に行っていいですか?」というようなお問い合わせを受けることも一再ならずある。

もちろん、手前はこれからの中学ソフトテニス界を担っていくであろう若い指導者たちに、少しでもお役に立てることがあれば協力をしようという気持ちは吝かではないから、ゆめお断りをするようなことはしない。いつも「あ、いいっすよ」と答えることにしている。

今回も、以前から見学したいとの旨は伺っていたので、日程を調整しての来校とは相成ったのである。

練習は午後からだったので、1時過ぎにコートへとのこのこ出ていった。件の先生はもう来校されていた。「こんにちは、今日はお世話になります」とあいさつされたので、「練習を見ていて何か質問があればしてくださいね」とお答えした。

さて、練習が始まった。メニューが変わるたびに、その先生は用意されてきたノートに熱心にメモをされている。

1時間が経って休憩。最初に行ったのは基本的なストロークの練習である。最も基本的で大切な練習であるから、何か質問が来るものと思っていたのだが、その先生は手前のところへは来なかった。

練習メニューが変わり、さらに1時間。休憩。質問はない。

その頃から、手前は奇妙な符合を思い出していた。そう言えば、今まで本校の練習を見学に来た先生たちって、熱心にメモは取るのであるが、手前にあんまり質問とかしなかったなあということである。

どうして質問をしないのだろうか。どちらかと言えば、手前はあんまり愛想がいい方ではないと思われるので、質問しようにもしにくい雰囲気があるということであるのなら、それは偏に手前の不徳の致すところであるから言葉もない。しかし、わざわざ練習を見学に来るということは、それなりに自分から求めるものがあるからだと思われる。だったら、質問せずにはおられないというようにはならないのであろうか。

手前はまだ顧問になって駆け出しのころ、愛知県のある先生のところに、それこそ何度も何度も電話をかけたり実際に出かけたりしながら、テニスの指導について教えを乞うた覚えがある。そんなことを思い出しながら、その先生の様子を見守っていた。相変わらず、その先生は熱心にメモを取っていた。

さらに1時間。休憩。質問なし。

そう言えば、若い先生たちって先輩教員に質問をしなくなったなあということにも気がついた。手前たちの若い頃は、学級経営にしても生徒指導にしても部活動の指導にしても、いろいろとうまくいかないことがあると、その度ごとに先輩教員に「どうすればいいんですかねえ」と質問していたことを思い出した。そうすると先輩教員は、時には居酒屋へと誘いながら、ありとあらゆることを懇切丁寧に教えてくださった。

そうやって、先輩から後輩へと一種の「教員文化」とでも言えるようなものが受け継がれていったのではないか。「体育大会で学級対抗の綱引きに勝つには?」とか、「班ノートをうまく学級づくりに役立てていくためには?」というような、具体的な指導方法が伝授されていったのである。

そういうことが、いつのまにか職員室では見られなくなった(これは、こと教育現場だけではなくて、一般企業等でも同様のことが見られるとのお話を聞いたことがある)。

若い教員たちは、教科の指導にしても生徒の指導にしても、等し並みにスマートにできる。そうして、特に困ったような顔はしない。もちろん、質問などしてこようはずはない。しかし、ある日突然休んでしまうのである。医者に受診して「うつ」と診断され、私傷病の特休に入ってしまう(もちろん、みんながみんなというわけではない)。つい昨日まで明るく振る舞い、悩み事など何もないような顔をしていたのに。

日が傾きかけてきて、最後の1時間。練習終了。質問なし。

その学校の生徒さんたちがあいさつに来た。「お疲れさま」と応える。

先生が来た。「どうも今日はありがとうございました」とおっしゃったので、つい手前は「先生は、今日何のために来たの?」と、こちらから質問をしてしまった。

そうして、練習終了までのほぼ4時間(ある意味で、この時間は手前がその先生のために供した時間である)手前の胸の中に蟠っていた以下のようなことを諄々と話した。

練習方法についてのマニュアルを求めるのならば、それはそれでよい。しかし、本校の練習方法は、あくまで本校の選手たちのために考えられたものであって、それをすぐさま自校に持ち帰って活用できると考えるのは早計である。そんなことより、「そもそも練習とは如何なるものなりしか」とか、「生徒たちをやる気にさせるには如何なる方策がありしか」などという、コンピュータに例えればOSに相当する部分についての情報を得るようにすることの方が大切なのではなかろうか。OSがあるからこそ、ソフトウェアは駆動する。マニュアルは特定のソフトウェアを駆動させるためにあるものであって、OSについての理解があればソフトウェアを自作することだって可能(知らないけど)なのではないか、など。

その先生は、「お願いがあります」とおっしゃった。「もう一度、練習を見学に来させていただいてよろしいですか?実は、私は具体的な練習方法を何も知らなかったので、とりあえずは練習のやり方を覚えようとするだけで精一杯だったのです。今日教わった練習方法については、これから自分なりにどういうコンセプトでこのような練習をしているのかということを考えたいと思っています。その上で、先生にはいろいろと質問させていただこうと思っていました」とのことであった。

「なーんだ、そうだったんすか、これはこれは早とちりをして失礼なことを申してしまいましたね、ごめんなさいエヘヘヘ」などとは申すまい。

人との出会いは、「一期一会」である。「一度しかない」と思うからこそ、その出会いの時間をどうすれば充実したものにできるかということを考えるのである。「二度はない出会い」だってあるということについて思いを致せるような想像力がないような教員では困るのである。とりあえず、「うーん、まあ都合がつけばまた来てくれてもいいけど…」などと曖昧に答えておくことにする。

きっと、先輩の教員から脈々と受け継がれてきた様々な「教員文化」とも言うべきものも、いずれは消え去っていくのであろう。しかし、教員の仕事というのは子どもに「文化を伝承させていくこと」である。そのためには、まず何より当の教員が文化を伝承していこうとする姿勢を持たなければならないのではなかろうか。

「今日びの若い先生は」などと言うと、自分がそういうトシまわりになってしまったのかと思って悄然としてしまうが、どうも一方ならぬ問題を含んでいるような感じがするのは、あながち杞憂ではないような気がするのだけれど。

寒い4時間であった。